人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

少女論について

2013-03-04 11:27:06 | 少女
月曜日はお休み(週5で働いてる)。なのでちょっとのんびりです。
2つ目の研究テーマ、少女論について説明します。


【主旨】
 生殖への準備期間でありながら、生殖を禁じられているという「少女期」の矛盾が、メリトクラシー的な構造のなかに組み込まれることを拒み、ネオリベラルな社会への抵抗力となる。学問や大学のあり方、文学とは何かという理論と絡めて、少女の存在意義を問う。少女が消費社会に絡め取られる現状を考察しつつ、「少女」というフィクションをテクストのなかに立ち上げることを目指す。

【対象とする作品と研究史】
 少女期については、以下の三点が指摘されている。
一点目、良妻賢母を育てるための準備期間であり、純潔規範と愛情規範という矛盾した規範を与えられたこと。
二点目、女子も学問を身につけるべきとされたこと。
三点目、少女たちがいつまでも少女のままでいようとすること。
 しかしながら考えてみれば、日本において文学、あるいは学問の価値がいまだかつて認められたことがあっただろうか。
 「少女」における矛盾とモラトリアムな欲望を、新自由主義化する社会に抗し、学問の価値を模索するフィクションの可能性として、積極的に捉えたい。そのために、「少女型意識の誕生」とされ、作家で学者であった野溝七生子の小説『山梔』、「不滅の少女」矢川澄子の作品群を取り上げる。
 『山梔』の中では、大人になりたくないという思いや死への欲望が描かれ、結婚も立身出世も拒む反世俗的な意識が描かれている。世俗的なもの全てを拒絶する風変わりな女主人公の阿字子が求めたものが文学であった。
 矢川澄子は、翻訳やエッセイ、評伝、小説などさまざまな文芸活動を行った人物であるが、最も「アマチュア」に近いと言われるのが、小説であった。小説を中心として、何度も子どもを堕ろしたことが触れられていることと、「兎」の表象に注目する。

 白石嘉治の『不純なる教養』を読んだときに、一番衝撃を受けたのが、我々は無償で存在している、という考え方でした。私はきっと食べていかれないから、大人になるまで生きていたくないな、と思って子ども時代を過ごしていたので。20歳くらいのときに、諦めて開き直りましたが。たぶん、そういう「死にたい」という思いは、「少女」に共通するもので、反メリトクラシー的な少女のあり方と関係してるんだと思います。だから、少女が存在しうるためには、存在は無償でなければならないと思う。

 因みに、某アイドルグループの(性的な価値が強調されるのに)「恋愛禁止」を私が上で述べたような「矛盾」と考える人がいるかもしれないけど、それはちょっと違うと思います。
 あれは、彼女たちの「性」がみんなのもので、切り売りされる商品だから、自分のものにしてしまってはいけないという話。こういう喩えをすると怒る人がいるかもしれないけど、むかしの遊女さんたちが、「恋愛禁止」なのとおんなじじゃないかな。
 アイドル詳しくないから間違ったこと言ってるかもしれないけど。

子犬ちゃん

2013-03-03 19:48:18 | 犬・猫関連
 現在うちで人馴れさせている保護イヌの二回目のワクチン接種をするというので、今日は掴まえるのが大変でした!
母と二人で一時間弱かかった。
 河原から保護されてうちに来たのですが、生まれて間もない頃に全然人に接していなかったのと、保護したのが割と大きくなってからだったのとで、なかなか馴れません。だいぶん甘えたれにはなったのですが、捕まえようとすると無理なので、これじゃあ病院にも連れていけないし、里親さん候補に見せに行くことも出来ない。今日はついでに犬の訓練所も見学し、感じも良かったし庭も素敵だったけれど、犬舎がコンクリで保健所のようだったから預けるのはやめたんだそう。…警察犬訓練所、という名前の場所なので、そういうところは厳し目なのかな…。河原から直接そこに行くんだったらいいけど、一旦家のなかにおいて、柔らかい布団の上で寝ることに慣れてしまうと、ちょっとね…。
 男の子なので、男の子同士同じ場所に置くと(去勢してても)モメるので、絶対里親に出したいんですけど…、どうなることやら。


追記―2012年度センター試験国語

2013-03-03 15:09:51 | 国語教育と文学
 後から気づいたんですけど、石原千秋は小林秀雄の問題ほうにケチつけてるようですね(http://sankei.jp.msn.com/life/news/130218/art13021807590000-n1.htm)。
 確かに、石原が言うように「評論」とはこういうものだと思って真似をしたらいけないという面はある。小論文でも書かせてみたら、その手の勘違いをしている受験生は結構多いことが分かります。
 ただ私は、評論問題は論理的な思考ができるかどうかを見るものとは考えてないんですよね。何が書かれているか理解できるか。自分の考えに影響されたり、自分の考えと混同したりすることなく、何が書かれているか理解できたらそれで充分だと思っています。大学に入ってレポートや論文を書く上では絶対必要ですから。他人の考えを間違って要約したら失礼です。
 確かに論理的に思考する能力は必要ですが、論理的な文章を読んだところで論理的に思考できるとは限りませんし、論理的な思考能力を見たいんだったら、やっぱり書かせないと…。
 「鍔」に関しては、「鍔とは何か」さえ問えていたら、それでO.K.だと、私は思います。

 ついでに言っておくと、単純に言語的な論理能力を高めるためだったら、評論より小説のほうが向いてると思うんですよね。評論の場合、どうしても現実との関係が出てきますから、書かれている内容に事実誤認があればいくらその文章のなかで論理的な辻褄が合っていても、それが正解だとは言いがたい。でも、小説の場合完全に言葉でできた世界なので、言葉の論理で正しいことが正しい。例えば「空から豚が降ってきた」とあれば、その小説世界のなかでは空から豚が降ってきたんだと思うしかない。だから純粋に言葉によって構築された世界を読み解いてゆく作業になると思うわけです。
 一方で評論は、言葉と世界、言葉と社会、言葉と自然現象、言葉と自分との関係などを理解させるための手段…、かな。誰かの心情だの考えだのを読み取らせるんだったら、評論のほうがいいと思うんだけど。だって、書いてるんだから。

2012年度センター試験国語について

2013-03-03 13:12:12 | 国語教育と文学
 少し古い話になりますが、今年のセンター試験、国語の難易度が上がったと言って話題になりましたよね。
 小林秀雄のほうは、ちょっと古風な文体やアイロニカルな表現に、受験生が面食らっただけだろうと思います。問題自体はそれほど悪問でも分かりにくいものでもない。

 ただ、牧野信一『地球儀』のほうは、ちょっと…。設問と問題文が噛み合っていない、という印象を受けました。設問と選択肢は従来通りのセンター試験らしいもの。センター試験問題の設問のつくり方として、独自に洗練されてきた方法です。でも、『地球儀』は内容として、ちょっとイレギュラーなんですよね。どんな問題文を課題にしても、同じような設問と選択肢なんだったら、問題文必要ないじゃん、設問と選択肢だけで充分。
 『地球儀』の肝は、「地球儀」という表象の変化を押さえること、そして小説内小説が挟み込まれる二重構造を理解できるかどうか。これが設問を正しく解いた場合に見えてくるようじゃないと、設問としては間違っていると言わざるをえない。千年一日のごとく「傍線部のだれそれの心情の説明として最も適切な選択肢を選べ」とやっているだけじゃ、いつまで経っても小説が読めるようにならない。
『地球儀』にとって一番重要な問題は、「地球儀」とは何か、でしょう。

 日本の国語教育は、どうも(人間以外の)物や場所に注意した読み方ができないようです。いつになったら、ことばをことばとして、例えば算数の文章題を解くときのように小説を読む読み方が、教えられるようになるんでしょうか。

グリーンゲイブルズのアン

2013-03-03 12:27:15 | 書評の試み
今日はちょっと趣向を変えて、気楽に書けるものを。
しんどい…、花粉症なのかな?


『赤毛のアン』というと、日本では夢見がちな少女の物語として、ロマンティックなものとして享受されているようですが、家族像という観点からも、参考になる面があると思います。
 孤児を預かって育てることとか、夫婦じゃなくて結婚していない兄妹であるとか、あの時代に孤児の娘を大学に行かせてあげてること(アンが自分で貯めたお金使って、ですが)とか、そのときにマリラが仲の良い女の人と同居するとか。それも自分の方針を押しつけるのではなく、アンがやりたいことを邪魔しないように気をつけている感じで、家族でありながら他人である、アンとマリラの距離感もいい。
 しかも、ボランティア精神を発揮して可哀想な子どもを引き取ろうとしたのではなく、労働力として男の子を貰おうとしたのに、手違いで女の子が来てしまった、その子を大事に家族として育てることになった、経緯の描き方もうまい。「神の思し召し」だったんだ、と終盤でマシューとマリラが言うのですが、偶然出会うことになった命を引き受ける感覚は、確かにキリスト教的なものなのかな、と思います。少女小説として同じように人気のある『若草物語』に比べて、イレギュラーな家族ですが、健康的ですよね。
 
『赤毛のアン』の原題は、Anne of Greengables(綴り合ってるかな?)と言って、直訳すればグリーンゲイブルズのアン。それだと日本語として分かりにくいので、『赤毛のアン』という題をつけたそうです。確かに、『赤毛のアン』は、分かりやすくてきれいな題です。でも私はやっぱり、『グリーンゲイブルズのアン』のほうが、内容をよく表した良い題だと思うんですね。なぜなら、この物語は、どこの誰でもないただの「アン」が、「グリーンゲイブルズのアン」になるまでの物語だから。最後にマシューが「わしの自慢の娘だ」と言って亡くなり、アンはグリーンゲイブルズを守るために奨学金を蹴って家に残ることを決める。
『赤毛のアン』という題だと、どうしてもギルバートとの関係が中心になります。前半でギルバートがアンの髪の毛をからかって喧嘩し、最後ギルバートがアンにアボンリーの教員の道を譲って、仲直りするので。日本におけるロマンティックなものとしての享受は、そのへんの影響もあるのかな、と思います。確かに続編の続編のそのまた続編くらいで、アンとギルバートは結婚しますが、ここではまだまだそんな話にならない。アンはお勉強とお家のことで頭がいっぱいです。