葉山町で協働の懇話会が始まった。梅雨明けの土曜日、海水浴に行く若者に混じって、葉山まで出かけた。
懇話会のメンバーは、地域活動やNPO活動をしている人たちで、私はアドバイザーとして、参加した。昨年、職員研修や市民に対する講習会を担当した流れで、懇話会にもかかわることになった。この日は、協働活動の成功例、失敗例を検討したが、その前段で私が話をすることになった。
配布された資料のなかに、検討のたたき台として、行政内部で検討した案があり、そこに概要、次のように書かれていた。「一般に協働という言葉の起源は、1977年、アメリカの政治学者ヴィンセント・オストロムが、地域住民と自治体職員が協力して自治体政府の役割を果たしていくことを一語で表現するために造語した“coproduction”を日本語に訳したものである」。これはどこの協働指針にも、ほぼ同じような文言で書かれている。
これによると、協働というには、今から40年くらいに初めて発見され、しかもアメリカから伝わったことになる。本当なのだろうか、私たちに協働の歴史はないのだろうかというのが私の疑問である。
例に出したのは、道普請である。これは、地域の住民が総出で、道を切り開き、道を維持管理する作業である。道以外でも、川普請、土手普請などたくさんの普請がある。道普請の論文を読むと、おそらく記録との関係であろうが、明治時代以降の話が中心となるが、江戸時代にもたくさんあり、さらにも、もっと過去にさかのぼることができるのだろう。これは協働のルーツとは言えないのかという話である。
この普請という協働作業は、稲作をつくって暮らすという私たち文化に密接に関係している。米を作るためには、水を適切に配分しなければならないが、そのための水路をつくり、維持管理していかなければならない。それを怠ると飢餓と直接結びつく。こうした協働作業は、私たちの暮らしそのものだった。
これに対して、飼っていた家畜が逃げるのを防ぎ、あるいは家畜の盗難を避けるために、囲いをつくって、外部と遮断することを基本とする牧畜農業ならば、協働作業は特別のことになるが、稲作文化の日本においては、協働のルーツがDNAとして私たちの体に組み込まれているのではないかというのが、この協働アメリカ伝来説に対する私の疑問である。
ただ、道普請に代表される協働事業は、封建時代の協働事業である。つまり、道普請に出なければ村八分になるという、個人の人格的自立を無視した連帯性が要求される。それを現代にふさわしい民主的な制度に転換することが必要で、昔からの連続性はあるが、民主性という観点から質的転換が求められるのが現代の協働事業ではないか、大要、そんな話をした。
もうひとつ協働の定義に関して、長い話をしたが、これは別の機会としよう。
葉山町役場へは、新逗子駅からバスにのって葉山小学校で降りる。新逗子駅南口は、バス乗り場が①、②あり、②のほうは、人がたくさん並んでいた。こちらは海岸道りを回るバスで、こちらは乗り切れないくらいだった。それでも、かつては、葉山の夏というと、車が動かないというイメージがあったが、さほどの渋滞がなくバスが動いたので、それだけ海水浴客は、以前より減っているのだと思う。