松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆住民投票・未完の決定システム(新城市)

2015-08-06 | 1.研究活動

 久しぶりに新城市にやってきた。今回は、議会で意見の交換と、市民まちづくり集会を運営した市民の人たちと久しぶりに会うためである。

 新城市議会の議員さんは、顔見知りの人も多く、その意味では気楽であるが、それぞれの立場もよく知っているので、逆に、難しい意見交換になると思ってやってきた。話をした後に、比較的長い意見交換となったが、印象的だったのは、だれもがポジショントークにならず、みんな穏やかな笑顔で質問(意見)を出したことだった。おそらく遠来の客をもてなす、新城らしい優しさで私に対応したのだと思う。

 途中、気楽な分、言わなくてもよいことや、やや不適切な表現(学問的には間違いではないが)も言ったが、また穏やかに「ちょっと不適切ではないか」と諭されたが、言われた当方とすると、嫌味でも、不快でもなく、確かに言葉足らずだったなあと、率直に反省する機会もあった(怖い顔で言われたら、学問的には…などという議論になったろう)。

 新城市にはいろいろな思いがあり、話したいこともたくさんあったので、話があちこちに飛んだが、根本は民主主義についてである。

 いうまでもなく、民主主義とは、多数決ではなく、価値の相対性である。価値の多様性を前提に、そのなかから、よいものを集め、止揚していく仕組みである。この民主主義の基本から見ると、住民投票は未完の仕組みと言える。

 そもそも、市民のさまざまな思いをA案、B案に収斂することが困難である。自分の意見は、よりA案に近いと考えるがせいぜいで,A案のこの部分は、自分の考えと違うという場面があるのが普通だからである。すべて全面的に異議がないというのは、それは宗教の世界で、地方自治の世界ではありえない。したがって、投票結果の持つ意味は、大きな方向性の確認くらいしかないということを自覚すべきだろう。

 住民投票をすると、膨大な棄権票がでる。棄権の理由として、①病気・仕事などで行きたくとも投票に行かれないという個人的理由、②面倒である、テーマに関心がないといった無関心、③正直よくわからない、あるいは単純に賛成か反対では決められないといった住民投票に内在する限界、④そもそもこの問題でなぜ住民投票するのだという住民投票それ自体への疑問などに大別できるが、このように棄権の理由はさまざまで、棄権票には、住民の多様な思いが含まれている(つまり棄権にも積極的な思いや意味もある。時々、棄権した人は、自らの権利を放棄したので、相手にする必要はないという議論があるが、なんと傲慢で権力的な意見だろう)。

 価値の相対性という民主主義の政策決定の原則から言えば、こうした棄権票も含めた少数意見をどのように取り入れるかがポイントになる。しかし、従来の住民投票では、投票結果が出て終わりということになってしまって、その後の民主制の過程がすっかり欠落している。人々の複雑多様な思いを取り入れる仕組みがないから、住民投票が終わった後には、殺伐とした対立を残すだけという現実になっている。

 実際、住民投票では、投票で何か決まったような気になるが、本質的な問題が解決されないままになっている場合も多い。たとえば、多くの費用がかかる高齢者施設を住民投票で否決するのはよいが、本来の課題である高齢者問題は解決されないまま、依然として残ってしまっているからである。

 このように、住民投票は未完のシステムで、住民投票後の民主的な政策形成のプロセスが必要であるが、それをどのように構築するかか今日、問われている。対立の余燼が残る現場から、それを構築することは容易ではないが、今の新城市では、それが求められているのだろう。あえてことを起こすために住民投票を行ったのではなく、自治の原理を実現し、少しでもよい町をつくるために住民投票を行ったのだとしたら、今こそ、この困難な課題に立ち向かうべきだろう。新城市ならば、それができるだろう。大いに期待したい。

 

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