アリストテレスは、「最高善」を言うが、原典は、難しくてとても読み通せない。大阪国際大学では、こうした古典は、山本先生たちから、「耳学問」で教わった。教授会では同僚であるが、古典への理解は、先生と学生くらいの差があるので、気楽に教えてくれた。
相模女子大学は、みな領域がバラバラなので、研究会を開くこともなく、議論にもならなかった。他の政治学部のある大学では、どうしているのだろうか。
アリストテレスは『政治学』の中で「ポリスの目的は『最大の善』」とするが、正しい政体と統治者が自らの私的な善を追求する政体を区別し、その基準として、最高善を使う。
しかし、リベラリズムの立場からは、価値は相対的であり、その分、善も多元的だから、そこに、共通点を求めるのは無理だと考える。逆に、公的権力がある特定の「善」を公定し、推進すると、ナチスや中国・香港のように、それとは違う「善」を抱く人々は抑圧される。これはよくわかることである。だからリベラリズムの立場では、善ではなくて。「正義」(デュープロセス)から、政治や社会を見る。
私の仮説は、「想像の共同体」である国家と「現実の共同体」である地域自治とは、構造的に違うので、リベラリズムからの異論は、地方自治では、半分は当てはまらない(共通善は、容易に確認できる)というものである。
地域には、日々の暮らしがある。共通善=共通・共感できる「幸せ」であるが、地方自治では、地域でともに暮すという前提があるために、一定の共通・共感可能な「幸せ」の要素=条件が抽出できると思う。
具体的には、個人の尊重(憲法13条)とその前提条件の一つである地域の平穏、安寧、安全である。この平穏、安寧、安全は、日々の暮らしと密接に関係している。そして、個人の尊重や地域の安寧を確実なものにするのは、支え合う、助け合うという行動が必要になる。励ます地方自治である。
マイケル・サンデルは、コミュニタリアニズム(共同体主義)の立場に立って、共通善の意義を考えるが、少なくとも、コミュニタリアニズムは地域=地方自治においては、むしろぴったりはまり、その要素である共通善を確認する作業は難しくないというのが、私の仮説である。
相模女子大学は、みな領域がバラバラなので、研究会を開くこともなく、議論にもならなかった。他の政治学部のある大学では、どうしているのだろうか。
アリストテレスは『政治学』の中で「ポリスの目的は『最大の善』」とするが、正しい政体と統治者が自らの私的な善を追求する政体を区別し、その基準として、最高善を使う。
しかし、リベラリズムの立場からは、価値は相対的であり、その分、善も多元的だから、そこに、共通点を求めるのは無理だと考える。逆に、公的権力がある特定の「善」を公定し、推進すると、ナチスや中国・香港のように、それとは違う「善」を抱く人々は抑圧される。これはよくわかることである。だからリベラリズムの立場では、善ではなくて。「正義」(デュープロセス)から、政治や社会を見る。
私の仮説は、「想像の共同体」である国家と「現実の共同体」である地域自治とは、構造的に違うので、リベラリズムからの異論は、地方自治では、半分は当てはまらない(共通善は、容易に確認できる)というものである。
地域には、日々の暮らしがある。共通善=共通・共感できる「幸せ」であるが、地方自治では、地域でともに暮すという前提があるために、一定の共通・共感可能な「幸せ」の要素=条件が抽出できると思う。
具体的には、個人の尊重(憲法13条)とその前提条件の一つである地域の平穏、安寧、安全である。この平穏、安寧、安全は、日々の暮らしと密接に関係している。そして、個人の尊重や地域の安寧を確実なものにするのは、支え合う、助け合うという行動が必要になる。励ます地方自治である。
マイケル・サンデルは、コミュニタリアニズム(共同体主義)の立場に立って、共通善の意義を考えるが、少なくとも、コミュニタリアニズムは地域=地方自治においては、むしろぴったりはまり、その要素である共通善を確認する作業は難しくないというのが、私の仮説である。