鎌ヶ谷市で政策形成能力研修のお手伝いをした。
鎌ヶ谷市で、研修のお手伝いをするようになってどのくらいになるだろうか。大阪国際大学を退職にして、無職になった時に、市から頼まれて研修を始めた。私も無職で時間もあるし、収入もなかったので、ありがたいとことであると、お引き受けしたのが最初である。
横浜市を退職し、大学に移り、連れ合いと関西に引っ越した。関西は、とても住みやすかったが、それでも、神奈川に家があるので、行ったり来たりの生活だった。そのうち、連れ合いが、神奈川のほうにとどまるケースが多くなり、結局、別れ別れの生活になった。毎週、月曜日の朝に一緒に食事をして、私は新幹線で京都に行き、木曜日の午前中で授業が終わると新幹線で帰ってきて、夕飯を一緒に食べるという生活が続いた。
夫婦離れ離れの時間が長くなり、更年期を迎えた連れ合いの調子も良くないので、思い切って、大学を辞めることにした。辞めるにあたって、収入もなくなるので、私は、ずいぶんと心配したが、連れ合いのほうは、「何とかなるんじゃない」といった大らかな対応で、女性のしたたかさには、驚いたものだった。
この無職の1年は、面白い体験をたくさんやった。前半は、ともかく時間があるので、それまで行けなかった長期間の海外旅行に行った。『自治の旅』(萌書房)にも書いたが、ニュージーランドの田舎をバスで、マット・スシ(MAT・SUSHITA)と名乗って旅をした。島田紳助たちのテレビ番組の手伝う(テロップにも私の名前が出た)という体験もした。そんなときに、鎌ヶ谷市から、研修を引き受けたのである。
例年、鎌ヶ谷では、この無職体験の話をするが、今回は、時間が押したので、ショートカットの話となった。私の無職に同情して、マロンの散歩に行く公園の管理人さんたちが、私の仕事の口を斡旋してくれようとした話など(もし仕事の口が空いていたら、いまごろ公園の管理人をやっている)、時間があったら、もう少しゆっくり話ができたのが、ちょっと残念である。
鎌ヶ谷市に義理を感じている私とすると、鎌ヶ谷市からの依頼は、万難を排しても、引き受けることにしている。年明けには、地方創生のシンポジュームがあり、講演を頼まれたが、もちろん、それも引き受けることにした。