
自治基本条例の研修会で、久しぶりの小田原へ行った。
自治基本条例には、ニセコ町型とこの小田原市型がある。行政統制型と市民活力型の違いであるが、その違いは、だれがこの条例をつくったかで生まれてくる。ニセコ町の場合は、北海道の自治体職員が集まって作ったが、小田原市では、市民が、ほかの町の条例を見ないで作った。その分、条例の内容は、地域活動や市民活動に比重が高くなるは、当然のことだと思う。
市民活力の重要性は、今度の大震災で、実際に明らかになった(地域コミュニティの強弱が市民の生死を分けた)。この条例では、法的には、法の埒外においてあるにもかかわらず、他方、公共的なことを担っている(担わされている)地域コミュニティを真正面から受けとめて、条文に書き込んだが、その分、さまざまな議論があるだろう。ここで大事なのは、評論家的な批判論でもなく、古びた教科書に載っている自治論でもなく、だれが地域の安全や災害救援を実際に担うのかという回答つきの議論である。それがNPOならば、どのようにして住民組織率を7割にするのか、あるいはそれが行政ならば、その分の税金をどうやって集めるのかの道筋を示すことが必要である。
この研修でもうひとつ強調したのは、この条例は、次の100年の自治(もっといえば日本のあり方)を、市民が考えながら作ったものであることである。出した結論は、行政への要求ではなく(これは依存の裏返し)、市民の自立(自律)を基本に、これからの地域を組み立てなおそうというものである。これも、今度の大震災で問われていることである。この組み立て直しが、世界から尊敬される日本をつくる、遠回りだけれども、唯一の方法だと思う。
早めに、市役所へ行ったら、懐かしい顔が、たくさん集まってくれた。一緒に考え、ともに苦労したということの表れだと思う。しばし、馬鹿っ話になったが、凝縮した有意義に時間となった。
いつも思うことであるが、小田原駅に降りると、うきうきした気分になる。おそらく、その先に、箱根や湯河原があるからだろう。旅行に行く前のうきうき感と同じものが味わえる町ということなのだろう。
自治基本条例には、ニセコ町型とこの小田原市型がある。行政統制型と市民活力型の違いであるが、その違いは、だれがこの条例をつくったかで生まれてくる。ニセコ町の場合は、北海道の自治体職員が集まって作ったが、小田原市では、市民が、ほかの町の条例を見ないで作った。その分、条例の内容は、地域活動や市民活動に比重が高くなるは、当然のことだと思う。
市民活力の重要性は、今度の大震災で、実際に明らかになった(地域コミュニティの強弱が市民の生死を分けた)。この条例では、法的には、法の埒外においてあるにもかかわらず、他方、公共的なことを担っている(担わされている)地域コミュニティを真正面から受けとめて、条文に書き込んだが、その分、さまざまな議論があるだろう。ここで大事なのは、評論家的な批判論でもなく、古びた教科書に載っている自治論でもなく、だれが地域の安全や災害救援を実際に担うのかという回答つきの議論である。それがNPOならば、どのようにして住民組織率を7割にするのか、あるいはそれが行政ならば、その分の税金をどうやって集めるのかの道筋を示すことが必要である。
この研修でもうひとつ強調したのは、この条例は、次の100年の自治(もっといえば日本のあり方)を、市民が考えながら作ったものであることである。出した結論は、行政への要求ではなく(これは依存の裏返し)、市民の自立(自律)を基本に、これからの地域を組み立てなおそうというものである。これも、今度の大震災で問われていることである。この組み立て直しが、世界から尊敬される日本をつくる、遠回りだけれども、唯一の方法だと思う。
早めに、市役所へ行ったら、懐かしい顔が、たくさん集まってくれた。一緒に考え、ともに苦労したということの表れだと思う。しばし、馬鹿っ話になったが、凝縮した有意義に時間となった。
いつも思うことであるが、小田原駅に降りると、うきうきした気分になる。おそらく、その先に、箱根や湯河原があるからだろう。旅行に行く前のうきうき感と同じものが味わえる町ということなのだろう。