10月10日今日で稲刈りが終了しました!機械の皆さん、そして、もうすぐ90才のお父さん、ご協力ありがとう御座いました!午後からは、筆甫のグラウンドゴルフ練習会に参加することができて、ホールインワン二回でみごと1位になりました!1位は初めてです!グランド整備の筆甫の会員の皆さんご苦労様でした!帰りは、地域のお店、筆いちでスーパードライを買ってきました!乾杯!
11月13日10月13日台風19号の次の日集乳所周辺の道路も浅く冠水していた。酪農家の状況も様々だった。まずは周辺の舘矢間の分を集荷した。角田の酪農家は周辺が田んぼなので、水が深く通れなかった。丸森地区は道路が崖崩れなどで壊れ、倒木などで停電だった。それでも、東日本大震災の停電の経験で大規模な酪農家は発電機をもっていたので搾乳機は動いた。ほとんどの酪農家で問題だったのは、遮断された道路だった。4軒は仙台からユンボ重機を運んでくれた酪農家もいたりして4日位で集乳車がいけるようになった。羽出庭と峠の3軒は1週間位だったが薄平の1軒は3週間かかった。その間、ひたすら搾乳して捨てた。最初、発電機の軽油はホームタンクのとダンプカーのを使った。一日20リットル消費したそうだ。集乳所の所長は交通の遮断された酪農家には徒歩で状況確認に向かっていた。所長に餌と燃料は必ず続けるからと言われたと酪農家の妻が言っていた。自衛隊のヘリコプターで餌が運ばれ、軽油は徒歩で自衛隊員が運んだ。途中、何度か道は復旧されたが、度々の豪雨で流された。感激と落胆が繰り返した。軒数の多い筆甫の酪農家は1週間で四重麦の5号線が集乳車も通れるようになり、集乳できるようになったが、東山の2軒が残ったが、3週間で集乳車がついた。町内の大きな道路は一月経った今でも復旧されない部分が多い状態です。
10月14日夕方に、やっとこさ電気が来ました。我が家の上の伊具高校の農場付近で倒木が高圧線に引っかかったそうで、その撤去が終わりました。丸森町はテレビ等の報道で皆さんはわかっていると思いますが、我が家は停電、断水、電話は通じず、崩土砂崩れで道路はふさがれていましたので、いろんな作業があったりしてラジオも聞く暇がない生活を送っていました。我が家は夕食時、台所の裏ののり面が崩れたりしましたが、家族全員の懸命な撤去及び排水作業により最小の被害で済みました。夕方に電気と道路がふっきゅうしたところです。牛乳は今朝までの分は廃棄しましたが、発電機を使っての簡易搾乳機で搾乳できたので牛さんたちは無事です。町中の人、大人から子供までみんなで泥かきをしたので、昨夜と今晩は、ぐっすり眠れそうです。筋肉痛は私の場合はしばらく後になるでしょう。つかれたので、おやすみなさい。
10月15日ご心配ありがとうございます。10月13日の台風で、2日だけですが陸の孤島になりました。とにかく朝の4時ごろから飛んでいるヘリコプターの音がうるさくて次第にイライラしました。でも、車で孤立した方がヘリコプターで救助されたと聞いて幾分気を取り直したりもしてます。昨日と今日は畑を通って町に降り、トラクターを使って土砂払いをしていました。スコップで作業をしていた方々がトラクターで土砂を救うとオーーと笑顔になるのはうれしかったです。
飯泉がひどいです!2~3m潜ったようで車が全滅家の中のものはゴミ袋に入れて外に出されて集積場に運び出していました!
どうもすいませんでした。被災された方々は、皆さん大変です。私は数日、水の引いた地区の泥をトラクターで取り除き作業をしていますが、片付けをしている方々のあまりの大変さと頑張に頭が下がります。
10月25日昨日は一階部分が水没した、友達の稲作農家に手伝いに行ってきました。先日は作業場の片づけでしたが今回は土壁の蔵の中のものをすべて出しました。土壁は触るとぶよぶよで、力を入れるのが怖いぐらいでした。でも、崩れません。100トンの玄米が水に浸かってしまって明日はトラックで角田のクリーンセンターに運んで焼却する作業です。トラックを友人から借りて伺います。昨日は少し得意の冗談も出るようになって、毎日、いろんなところから友人が応援に来るので少しは励まされたようです。前を向いて歩いていく様子を見守っていきます。自分自身も落ちゆかないのか足を滑らしたり、おっと思うようなことが度々あるので、意識して慎重に運転などをしていきます。
10月29日昨日筆甫の酪農家を。回りましたが、雪が降る前に、急な坂のない霊山線を直して下さいと
要望されました。役場に伝えて現在の状況を県に聞いたらてたり、不動尊からで31ヶ所が崩落して、こんなすっぱり道がなくなったりしていて上と下から工事していると聞きました。県道梁川線は大川口から45ヶ所崩落しているそうです。
11月1日午後10時、ついに高台のわが家にも水が出た!ちょろちょろですが出た!町の人たちが使わなくなったからでしょうか?トイレの水も流してみました。何度蛇口をひねったかしれません。百、二百・・・出た!
水道が出て、朝一番に何をしたか?やっぱり、洗濯でしょう!
昨日水道が使えるようになった方が最初の汚い水も、もったいなくて、トイレの流す水に使ったと聞いて
苦労が身についたなあ
11月2日今は復興の2文字ですが
台風が来るまで名刺の裏はこれでした
あったかなまちづくり
山仕事や出稼ぎだった
田畑を開墾して暮らし、養蚕や畜産を始め
会社ができて、地域で暮らせるようになった
少子高齢化の町になったが
あったかな学校があって病院がある
少ない子供を大切にして
各地区に福祉施設があって
あったかな交通手段と食事があれば
また、新しい地域ができる
11月7日スーパー区長!町まで、徒歩1時間30分
台風19号が通り過ぎた13日、区長は四重麦から役場まで最短距離を走った。地区のお年寄りのボンベの酸素が、今日まで。病院にいかなければならない!
道は土砂に混じって抱えられらないほどの大木が重なっていた。切立までいくと、椚塚のおんつぁんが電話をしても出ないから、様子を見てくれと頼まれた。まず役場が先と金ヶ作と五福屋ではどっちが近いと聞いたら金ヶ作と言うのでそちらに向かっていくと、橋の両側の道路が削られてなくなっていた。欄干だけが残っていたので伝わってわたったが下は濁流、危険だった。なんとか渡り、道を下ると道が削り取られていた。今度は残っていたU字溝の上をわたって土ヶ森にでた。その下の虚空蔵の橋には、材木が詰まっていて、向こうがわの飯泉住宅に水が流れこんでいた。役場まで後一キロ。歩いていくと、役場は、冠水していて、行けなかった。車を借りようと五福谷の親戚に向かうとパトカーがいたので、四重麦の病人の救助を依頼。ヘリコプターが手配された。家の前で救助を待つように連絡を取ろうとしても電話が通じない。片っ端から、近所の知人に電話をかけたら一人だけつながった!
11月8日峠、かけいり、四重麦のチェーンソウと重機をつかった30人が筆甫と羽出庭の生命線5号線を確保
区長が五福谷の親戚の家に行くと、「家の座敷にブタ2頭が横たわって死んでいるから持って行って」とブタ屋さんに電話をしていました。五福谷は丸森地区でも川
が一番氾濫したのです。
帰りは五福谷から、福沢、椚塚の安否確認をしながら四重麦の自宅に向かって歩きました。途中、道がえぐられていたりしていましたが、この路線が一番修繕しやすいことが分かりました。この路線がのちに交通量が多くなり、国道4号線と6号線にはさまれた5号線と呼ばれるようになりました。
家に帰ると、かけいりと峠の区長達と連絡をとり、10台のチェーンソウ部隊と重機を持った30人が孤立から脱出する道を切り開いて行ったのです。近隣の地域にとっても陸の孤島を脱する唯一の道路になりました。通勤通学や牛乳運搬、買い物もです。
不屈の米づくり親子
11月9日小斎中原、一階部分が水に浸かり、120tの米が浸水。
私は、1週間かかって自宅周辺、町営住宅団地、商店街の道路のトラクターでの泥除去が一段落して、生協のふるさと米を一緒生産している農家のお見舞いに行った。水が引いていて、家の中の畳や家具の片付けが進んでいた。まだ、米の入った倉庫は手つかずだった。ちょうど生協の担当者が来ていたり、報道記者もいたがなんとなく彼の様子はいつもと違った。その姿が以前のようになるのに また1週間かかった。次の日伝いに行くと「今日は、日曜日だから やすみだ」も何か一人でもできることはないか聞くと「息子も疲れてっからしない」と言われて、小齋まちづくりセンターへ、彼らは避難所から通って作業をしているのが分かりました。小齋の稲わらは、迫などの沢沢に打ち上げらていた。1メートル以上あるようでした。水の流れが津波の
ように打ち上げたようです。次に大内に向かいました
11月11日次の日には、親戚や仲間たちが来ていて、倉庫の中の道具や機械は、泥にまみれていたが片付けられ、米保管庫に入った米を取り出せるようになった。箱は水に浮かんで斜めになったり倒れたりしていたがフォークリフトで直した。水に十日浸かった米は発酵していて、泥と麹のにおいが凄く煙のような湯気がたった。10人で交代で箱から、掻き出したが発酵臭が凄くて大変な作業だった。なんとも大変な作業で中は紙袋が破れてスコップの邪魔になった。それが済むとパレットに積まれた米を取り出したが、水を含んで紙袋が破れ崩れていた。ローダーのバケットにスコップで積み、ダンプカーで畑に運んだが直ぐに捨てるところがなくなったようでした。私は酪農家にダンプカーやローダーを借りるのと一緒に堆肥センターで受け入れ可能か聞いたが、畑は物凄い泥で堆肥を運べず、満杯だった。米は仙南クリーンセンターに運ぶように指導された。トンバックの米は水で膨張して固まった。三日位かけて、土蔵の米も片付いた。土蔵の中には、いろいろな昔の道具や宝物があって選別も大変だったが、大勢だったから、やれた。最初の頃は固かった壁が柔らかくなって崩れはじめた。機械の格納庫も片付き、後は乾燥機や籾摺り機械などと一緒に100tの米が入った作業棟だけになった!私はここまでで、後は沢山の彼の仲間たちに託したが三日位後に終わったと噂を聞いた。終わる頃には、いつものおやじギャグも出てきたが、「仕事は、頼まれてするものじゃないから」と言っていたお釈迦様のような奥さんが2人を支えていたのだろうなと思った。再生する姿を見守っていこうと思います。
11月15日キャンプ場にいます。この辺の方の話では、上からは離れ森まで仮設道路がきてるそうです。下からはぐんみの入り口つながるのもあと数キロ。県では、年内開通を目指しているそうです。梁川線はあと数百メートル12月までを目指しているそうです。雪が降る前に通れると良いですね!
11月16日今日は、軽トラックボランティア。当たった
のは同級生の家。
【本日の活動数報告】
11月18日(月)
◆活動件数 37件
◆ボランティア人数 177名
明日も予定通り開催いたします。
お越しになる方はお気をつけてお越し下さい。
発行元:丸森町災害ボランティアセンター
住所:宮城県伊具郡丸森町字花田68
電話番号:090-6853-1095(8:30〜17:00)
11月18日昨日は、仙台から災害支援で布団4組を運んでくれた友人と待ち合わせしました!近所の友達から、預かってきたと言ってました。町に問い合わせたら避難所は間に合っているそうで、ウインドウブレーカーが足りないということでした。そこで、自宅避難した方に聞いたら、欲しいと言うので、そのお宅に届けました。友達は丸森が初めてだったので齋理屋敷を見て、わた福で食事をしました!書道の先生の展示がしてありました。先生に案内していただき、最後に色紙に書いていただきました!
10,000人突破 】
本日11月18日は177名の方々にご協力いただき、ボランティアセンター開設から今日までに丸森町へボランティア協力をしていただいた方の合計人数がぴったり10,000人となりました!!
ボランティアセンター開設から約1ヶ月。
丸森町の中心部にある社会福祉協議会の事務所も被災し、事務所に入れるようになったのは15日でした。
翌日16日にはボランティアセンターの旗揚げをしたものの、過去に大きな災害に見舞われたことの少ない丸森町にとって、ボランティアセンターの立ち上げと運営は今回が始めてでした。
きっと至らない点も多々あったことと思います。
もっとこうしたらいいのにと、もどかしく感じられたこともあると思います。
それでも中には、何度も何度も通ってくださる方々もおりました。
これまで丸森町にご協力いただいた10,000人の皆様。
本当に、本当に、ありがとうございます。
私たちはセンターの運営スタッフとして、ボランティアの皆様と大きなひとつのチームとなって災害復旧に取り組んでいる気持ちでおります。
丸森町には、まだまだ支援の手を待っている住民さんがおられます。
いまだ終わりの見えない道のりではありますが、10,000人という数に私たちは改めて奮い立たせていただくことができました。
明日からも、引き続きよろしくお願いいたします。
11月19日齋理屋敷の再開で観光客が訪れてにぎわっている。不動尊キャンプ場にも常連さんがボランティアに来て片付けをしている。トイレと水道が使えれば人が集まって来ても受け入れられます。役場に修繕を言っても、今、観光に使う予算はないと言われますが、ボランティアの方に設備工事関係の方が使えればいれば、紹介して浄化槽がどんな状況なのかだけでも解れば良いのだと思いますが。
11月19日県道霊山線をキャンプ場から登ってきました。岩岳を左側に見てずんずんいくと、右側に登る道路が見えるところで山の谷から崩れてきた大きな石を砕いておりました。後一月で終わると作業員の方が言ってました。途中、川側に崩れていた場所は旧道が利用出来たのではかどったようです!
11月17日流されなかった観音堂
県道梁川線を丸森からいくと、武士沢に観音堂がある。お参りに行く橋は跡形もなく流されたが、御堂は残っていた。
今朝、今月中に開通すると言われている梁川線がどのくらい工事が進んでいるかあるったりしながら、見てきました。
武士沢の部分100m位で車が通れるようです!工事現場の様子を見ると懸命の作業の様子が感じられました!
11月20日今日は、養豚農家の土運びに。
大学生5人のチームが土嚢に土を入れていました。若さゆえでしょう。自分で持てない位いっぱい詰め込んでいました。ところで、逃亡中のブタは、ブタ小屋に帰ってきたので捕まえて、角田に借りた豚舎に連れて行ったそうです!
11月25日キャンプ場のフィンランドサウナは床スレスレの浸水でサッシのレールに泥がありました。それでも外は軒下まで水しぶきの跡が滲みになっていました。2棟のコテージとトイレが被災したキャンプ場の施設は、ほとんど手つかずです。川沿いの遊歩道や周りにあった広場は、流されて無くなってました。流木や泥の除去には、チェーンソーや重機をもっている人