還り見れば酔生夢死か?

80歳代の聾人でネットの話題を書いています。足が悪いので家で得ることが出来るネット情報と私自身の唯我独尊の偏向文です。

介護

2007-06-08 07:55:46 | 日常生活
今朝の「産経抄」を何時ものように読んだが途中で読む字が滲んできた。

遺書の内容を読み、ふと、野口英男の母の息子を呼ぶ手紙を思い出した。

少し赴きは異なるが家族愛が何であるかを考えさせられた。

いずれ、私にも介護と言う言葉がハテあまる日が来るかも知れない。

介護に関する話しは私の身の回りの経験者によりよく話題になる。

別に注意することなく聞いているが、共通しているのは

①介護を要する両親は全て長男に押し付けられている(嫁の立場が無視されている)

②他の兄弟は時に来て良いことを言いい自分を責める

③遺産の問題となると目の色を変えて「取り分」の請求をする

④自分に生きて行くだけの年金があれば全てを捨てて一人になりたい

⑤自分は子供の世話にはなりたくない。

等 どの方も、なんと哀しい老後の母の姿だろう。

「介護」は最近は時と場所を選ばず耳にする。その内容の殆どは私の常識を超越している。

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【産経抄】 07'06'08

 「四十五ねんのあいだわがまま/お ゆてすミませんでした/みんなにだいじにしてもらて/きのどくになりました/じぶんのあしがすこしも いご/かないので よくよく ヤに/なりました ゆるして下さい…」。

 ▼「反骨の書家」として知られる木村三山の母親センは昭和30年、首をつって64歳で死んだ。

18歳で上州の農家に嫁いでから、働きづめの人生だった。

ころんで大腿(だいたい)骨を折り、家族の負担になることが耐えられなかったようだ。

 ▼孫の教科書を借りて字を覚え、書き上げた遺書は、三山と弟の詩集『母の碑』に収められた。センは近所に住む寝たきりの老人が、家族から厄介者扱いされていることに、心を痛めていたともいう。

 ▼介護をめぐる悲劇はいまも枚挙にいとまがない。

少子高齢化が進むなか、みんなで保険料を出し、負担を分かち合うしかない。

訪問介護最大手の「コムスン」による、介護報酬の不正請求は、この介護保険制度の精神を踏みにじる行為だ。

 ▼厚生労働省の退場処分に対して、親会社のグッドウィル・グループは、別の子会社に全事業を譲渡する奇策に出たが、厚労省は、待ったをかけた。当然だ。大型ディスコの成功で名をはせ、「質の高い介護サービスを日本中の高齢者に届けたい」と語っていた折口雅博会長(45)の志はどうなったのか。

 ▼事件が介護現場に与える影響ははかりしれない。

現場でまじめに仕事に取り組むヘルパーの意欲がそがれ、制度自体への不信感が広がれば、行き着く先は「介護難民」の大量発生だ。

「昔〈うばすて山〉があって/いまは〈うばすて山〉はないが/どこにでもある」。

『母の碑』にある「姥捨山」の一節。現代にもあてはまるなんて、あまりに情けない。
(2007/06/08 05:04)

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書家の木村三山の母親は遺書を書くためだけに字を習った。その死は、足を骨折して畑仕事ができなくなったことを苦にしての自死であったという。その時代の貧しい農村では、農作業ができなくなった百姓は価値の無いものと考えられていた。姥捨山の思想である。自殺そのものは悲劇的だが、その覚悟には心を動かされるものがある。死ぬためだけに文字を習うとは……。
 木村三山は幼少の頃より文字に憧れていた。墓石に刻まれた文字に指先を差し込み、血が滲むまで、爪が磨り減るまで繰り返しなぞりながら字を覚えた。彼が生まれた村には墓標以外に文字が無かったのだ。
 
 私の母親も三山の母親も、ちゃんと教育を受けていれば違った人生があったのだろうか。もっと違う価値観を持てたのだろうか。
 自身を振り返れば、いくらでも学ぶことはできた筈なのに、享楽のうちに時間を浪費し、かたや三山は決して恵まれた環境とはいえない中で血を流しながら学んだ。やはり本人の気持ち一つなのであろうか。
 今のところはっきりしていることは、三山は書家として名を残し、私はしがない珈琲屋。三山の母親は自死し、私の母親は生き長らえているということ。
 そして、そのどれもが人生である。
 
シャングリラ店主 本山 徹

リンクフリーなのでお断りなしでリンクさせて戴きました。(感謝)








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2 コメント

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母とは・・・ (沼じじ)
2007-06-08 18:44:42
木村三山のお母さんのことは初めて知りました。
「母とは・・・」で絶句です。
私の母も33歳で夫を亡くし、戦前・戦中・戦後を6人の子供を養育したが、一人暮らしが長く晩年は病院で痛みに耐えながらの寂しく辛い一生でした。
不甲斐無い子供だと恥じています。、
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沼じじさんへ (osamu)
2007-06-09 06:35:33
ご苦労されたのですね~。私の親不孝は今も後悔の念に悩まされています。何故?と言う思いで何時も一杯です。
学生時代に母から鉛筆書きの手紙が来たことがありましたが直ぐに涙が出て読めませんでした。
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