↑ 先日鎌倉八幡宮に行ってきました。大銀杏(オウ・イチョウ)の木がないのです。
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夜明けが早くなって・・・・(4/9日にこの記事末尾に新記事追加)
今朝は窓を開けた感じがチト違った。なんとなく生暖かいのだ?
空は曇っていて明るいことは明るいが今にも雨が降りそうだ。
体調は相変わらずよくない。
今朝 起きたときから身体に異常を感じている。
この異常は以前から何度も経験している。
心房細動が起きているのだ。脈拍も弱くモールス信号になっている。
鎮静剤?を飲む。
*心房細動が起きると、そこで血の塊ができて脳梗塞の原因になるとか?
暫く居間の床に寝て二度寝をして身体を休める、すると気が付けば、いつの間にか脈拍も落ち着き少しは脈も強くなっている。
これからは暖かくなり身体にもよい気候になる。
お昼前に北久里浜駅まで歩いて出たが流石に駅に着いたときは足はガクガクになっていた。
約25分かかった。でも歩けた。
歩けたことは、また、歩いてみるか?となるから不思議だ。
先日 鎌倉鶴が丘八幡宮の銀杏(イチョウ)の大木が風で倒れた報道があり、野次馬の我輩は早速それを確かめに行った。確かめに行くとは?言語道断です!
階段は上れないのでふもと(階段下)から祈願をしました。足がよくなり拝殿ができたときにまとめて賽銭は気張る心算です。
↑ 注連縄(シメナワ)の張ってある場所に大銀杏がありました。
↑ 少し離れた場所に元の大銀杏の根元が植樹されていました。
矢張りあるべきところにあるものがないと寂しいですね。
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以前の大銀杏(オオ・イチョウ)のある風景:Google より借用 ↓
現在の風景です ↓
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銀杏にまつわる故事来歴 ↓
源実朝 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一部抜粋 ↓
落命 [編集]
鶴岡八幡宮大銀杏
建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。
建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる八幡宮拝賀の日を迎える。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲る。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を切り殺す。太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された[4]。
予見が有ったのであろうか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、源仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」である。禁忌の歌と評される。
落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。承久記によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。
28日、妻は落餝し御家人百余名[5]が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。
系図 ↓ (Googleより引用)
* 笏(しゃく・さく)
http://tukineko.pekori.jp/heian/yougo2/ifuku/dan1.html
下記説明は↑より引用しました。
礼服や束帯姿の時、威儀を正す為に右手に持つ細長い板。
位の高下により牙笏(げのしゃく)、木笏(もくしゃく)の種類があった。
中期には牙笏は礼服着用事に限って使用し、朝服には上下の区別なく木笏を使うことになった。
木は柞(柞)・柊・桜・ふくら・櫟(いちい)等を好みで使用した。
形状は上辺を丸く、下辺を方形にしたものが臣下用で、天皇・上皇は上下とも方形のものだった。
束帯着用事に威儀を正す為に持ったが、公事等の時に笏の裏に紙を張り(笏紙しゃくし)、物忘れに備えた。
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公暁 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81
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PS:八幡宮の前の駐車場に車を入れたが最初に?時間分に当たる2千円の先払いであった(勿論 時間が幾ら短くても返金はありません)。
八幡宮には30分くらいしか滞在しなかった・・・。少し離れた駐車場では1時間500円~600円くらいなのにね~ まァ足が悪いので仕方ないか?
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Youtube から映像を拝借 ↓
Discovery and STS-131 Crew 2 Days from ISS
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夜明けが早くなって・・・・(4/9日にこの記事末尾に新記事追加)
今朝は窓を開けた感じがチト違った。なんとなく生暖かいのだ?
空は曇っていて明るいことは明るいが今にも雨が降りそうだ。
体調は相変わらずよくない。
今朝 起きたときから身体に異常を感じている。
この異常は以前から何度も経験している。
心房細動が起きているのだ。脈拍も弱くモールス信号になっている。
鎮静剤?を飲む。
*心房細動が起きると、そこで血の塊ができて脳梗塞の原因になるとか?
暫く居間の床に寝て二度寝をして身体を休める、すると気が付けば、いつの間にか脈拍も落ち着き少しは脈も強くなっている。
これからは暖かくなり身体にもよい気候になる。
お昼前に北久里浜駅まで歩いて出たが流石に駅に着いたときは足はガクガクになっていた。
約25分かかった。でも歩けた。
歩けたことは、また、歩いてみるか?となるから不思議だ。
先日 鎌倉鶴が丘八幡宮の銀杏(イチョウ)の大木が風で倒れた報道があり、野次馬の我輩は早速それを確かめに行った。確かめに行くとは?言語道断です!
階段は上れないのでふもと(階段下)から祈願をしました。足がよくなり拝殿ができたときにまとめて賽銭は気張る心算です。
↑ 注連縄(シメナワ)の張ってある場所に大銀杏がありました。
↑ 少し離れた場所に元の大銀杏の根元が植樹されていました。
矢張りあるべきところにあるものがないと寂しいですね。
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以前の大銀杏(オオ・イチョウ)のある風景:Google より借用 ↓
現在の風景です ↓
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銀杏にまつわる故事来歴 ↓
源氏3代にして滅びる
源実朝 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一部抜粋 ↓
落命 [編集]
鶴岡八幡宮大銀杏
建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。
建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる八幡宮拝賀の日を迎える。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲る。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を切り殺す。太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された[4]。
予見が有ったのであろうか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、源仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」である。禁忌の歌と評される。
落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。承久記によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。
28日、妻は落餝し御家人百余名[5]が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。
系図 ↓ (Googleより引用)
* 笏(しゃく・さく)
http://tukineko.pekori.jp/heian/yougo2/ifuku/dan1.html
下記説明は↑より引用しました。
礼服や束帯姿の時、威儀を正す為に右手に持つ細長い板。
位の高下により牙笏(げのしゃく)、木笏(もくしゃく)の種類があった。
中期には牙笏は礼服着用事に限って使用し、朝服には上下の区別なく木笏を使うことになった。
木は柞(柞)・柊・桜・ふくら・櫟(いちい)等を好みで使用した。
形状は上辺を丸く、下辺を方形にしたものが臣下用で、天皇・上皇は上下とも方形のものだった。
束帯着用事に威儀を正す為に持ったが、公事等の時に笏の裏に紙を張り(笏紙しゃくし)、物忘れに備えた。
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公暁 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81
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PS:八幡宮の前の駐車場に車を入れたが最初に?時間分に当たる2千円の先払いであった(勿論 時間が幾ら短くても返金はありません)。
八幡宮には30分くらいしか滞在しなかった・・・。少し離れた駐車場では1時間500円~600円くらいなのにね~ まァ足が悪いので仕方ないか?
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Youtube から映像を拝借 ↓
Discovery and STS-131 Crew 2 Days from ISS
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