もう40年近く前になりますか?勿論 当時は未だ我輩も会社員でした。
会社には我輩と気心の知れた先輩の方が居られて、お昼の休憩時間によく囲碁を打ったものです。
部屋は彼が4階で我輩は3階でした。
当時の我輩は所謂“ザル碁“で一局大体15分から長くて20分?
お昼の休憩時間は1時間ですので、いつも2~3局打っていました。
お昼は会社の地下の食堂に早めに行き昼食を済ませたものです。
食堂は11時半から始まっていましたから、そのような(囲碁を打つ)日には11時半過ぎには地下に降りて行きましたね。
12時のBGMがなった時にはお互い昼食は済んでいて、もう盤上には石がかなり並んでいました(笑)。
碁を打っている部屋は打ち合わせ室でパーテイションにより区切られていたので製図版に向かって未だ仕事をしている課員の目に触れることはありません。
然し、防音機能はゼロでしたから碁石を打つ音や話声は課員に筒抜け?でした。
時には時間が来て(休憩時間終了のBGM)打ちかけの碁盤を棚の上に置き仕事を早めに終わらして(?)午後6時ゴロからまた続きを打ったものです。
その彼が、ある日突然亡くなったのです。
その日 食堂に行ったときに我輩の後ろに立った他課の課員が
「○○課長 先ほど△△課長が亡くなりましたよ」
「えッ なんだと!」
「△△課長とは30分前に××工事の打ち合わせをしたばかりだよ」
「それで・・・、△△課は今 大変ですよ・・・・」食事どころではない。
直ぐに4階に上がった。課員は誰も居なかった。
自分の部屋に戻るが事務の女子職員が未だ書類の整理をしていたが、ことがことだ!
聞くわけに行かない。
食堂に降り、先ほどの職員を探すと食事中だった。
「君 食事が終わったら先ほどのことが、もっと知りたいので俺のところに来てくれないかな?」
「私は亡くなったと聞いただけで詳しいことは知りません。△△課長を病院に運んだ運転手に聞いて見られたほうが早いですよ」
「運転手さんの名は?」
「A運転手さんだそうです」
「ありがとう」直ぐに運転手さんの詰め所に向かった。
運転手詰め所のドアーを開けて、それとなくA運転手を探すがこれまた居ない。
「○○課長お急ぎですか?」中に居た運転手の方が我輩を見て急に出かけると思ったらしい?
「いや Aさんを探しているのだが?」
「Aは今病院です」
「そう お邪魔してすまん」直ぐに自分の部屋に向かう。
その日は何故かA運転手さんは捕まらなかった。
それでも、我輩の課員に情報通が居て(何処の課にもいますが)我輩が椅子に付くと、そ~と寄ってくるや
「△△課長が亡くなられましたよ・・」と耳打ちした。
「なに・・△△課長が亡くなっただと?」初めて聞く振りで聞きなおす。
「君 ちょっと来て呉れ」と打ち合わせ室に連れていった。
「△△課長が亡くなられたと言ったが本当か?ホントなら、そのことを、もう少し詳しく話してくれないか?」
「何でも11時ごろ急に気分が悪いと言われて、そばに居たBさん(課員)が課長の顔を見ると顔色が変わっていたとか?そこで直ぐに総務に電話して“至急救急車を頼みます“ と頼んだらしいです」
「総務とは何かと問いただされたようで、そこで少し時間がかかったとか?」
「で・・・・・」それを聞いていた△△課長が
「自分で車で病院に行くよ」と机から立ち上がられて歩いてエレベーターまで行かれたようです・・・」
「で・・・」
「そこ(エレベーター前)で倒れて吐かれたとか?」これは大変だと課員2~3人で1階の総務に連れて行き直ぐに社の車に乗せて例の病院(会社の専属病院?)に運んだそうです、然し途中で道路が混んで進めなく後部座席の課長の呼吸は止まったとか?」
「う~ん~~で・・・」
「運転手は、たまたま其処がK警察署の前だったので車を道路脇に止めて、警察署に飛び込み急を告げてパトカーの先導を頼みやっと病院に着いたらしいです」
「でも、病院に着いたときは、もう亡くなられていたそうですよ」
それ以上聞くに堪えなかった。
「君 ありがとう」自分の席にどうのようにして戻り座ったのか?今でも覚えていない。
その日のことは、それ以後 全く覚えがない。
死因は“くも膜下出血”だったと後から教わった。享年50歳だった。
http://neurosurgery.med.u-tokai.ac.jp/edemiru/kumomakka/shou.html
発作から死に至るまで20分も無かったようだ。
その死は余りにもあっけない“死”だった。
私が“くも膜下出血”と言う危険 極まりない病名を知ったのはその時であった。
後(ノチ)に聞くに、この“くも膜下出血”は発作時に、バットで殴られたような、もの凄い痛みが頭にあるとか?その他イロイロと症状があるとか?
よくエレベーターまで歩いて行かれたと思う。
温厚な人柄の印象が今でも脳裏に浮かぶ。
アレからもう40年近く経った。月日の流れは早い!
彼の眠るところは相模湾が望める小高い丘にあり遠くに富士も見える。
丁度 今頃は富士山が綺麗に見える時期だ。
毎年お参りはして居るが今年は行けるだろうか?
もう我輩も歳だ。我家から車でも高速を使って45分は掛かる。
衣笠の入り口から高速に入るインターでの標識が紛らわしい?
三浦(南方向)行きと朝比奈(北方向)行きの分岐点だ。
そこで間違いかけたことは一度ならずある。
若しも間違えれば高速道路を逆行することになる。歳の所為か?
瞬間、あれッ?間違えた?と錯覚するのだ。
標識の手前で停車して確認する、このころだ。
カミさんは
「あんなところで間違うの?」と不思議がる。
後続の車が慌てて急ブレーキを踏む音がする。
追い抜きザマに「バカ野老(?)!」と怒鳴られる。
紅葉マークは付けてあるのだが?
若い頃には思いも着かぬ間違い?錯覚が生じる年齢になったらしい?
最近は電動自転車でも我家への帰宅の坂道は苦しくなった。
カミさんは「自転車も乗るな!」といい始めた。
会社には我輩と気心の知れた先輩の方が居られて、お昼の休憩時間によく囲碁を打ったものです。
部屋は彼が4階で我輩は3階でした。
当時の我輩は所謂“ザル碁“で一局大体15分から長くて20分?
お昼の休憩時間は1時間ですので、いつも2~3局打っていました。
お昼は会社の地下の食堂に早めに行き昼食を済ませたものです。
食堂は11時半から始まっていましたから、そのような(囲碁を打つ)日には11時半過ぎには地下に降りて行きましたね。
12時のBGMがなった時にはお互い昼食は済んでいて、もう盤上には石がかなり並んでいました(笑)。
碁を打っている部屋は打ち合わせ室でパーテイションにより区切られていたので製図版に向かって未だ仕事をしている課員の目に触れることはありません。
然し、防音機能はゼロでしたから碁石を打つ音や話声は課員に筒抜け?でした。
時には時間が来て(休憩時間終了のBGM)打ちかけの碁盤を棚の上に置き仕事を早めに終わらして(?)午後6時ゴロからまた続きを打ったものです。
その彼が、ある日突然亡くなったのです。
その日 食堂に行ったときに我輩の後ろに立った他課の課員が
「○○課長 先ほど△△課長が亡くなりましたよ」
「えッ なんだと!」
「△△課長とは30分前に××工事の打ち合わせをしたばかりだよ」
「それで・・・、△△課は今 大変ですよ・・・・」食事どころではない。
直ぐに4階に上がった。課員は誰も居なかった。
自分の部屋に戻るが事務の女子職員が未だ書類の整理をしていたが、ことがことだ!
聞くわけに行かない。
食堂に降り、先ほどの職員を探すと食事中だった。
「君 食事が終わったら先ほどのことが、もっと知りたいので俺のところに来てくれないかな?」
「私は亡くなったと聞いただけで詳しいことは知りません。△△課長を病院に運んだ運転手に聞いて見られたほうが早いですよ」
「運転手さんの名は?」
「A運転手さんだそうです」
「ありがとう」直ぐに運転手さんの詰め所に向かった。
運転手詰め所のドアーを開けて、それとなくA運転手を探すがこれまた居ない。
「○○課長お急ぎですか?」中に居た運転手の方が我輩を見て急に出かけると思ったらしい?
「いや Aさんを探しているのだが?」
「Aは今病院です」
「そう お邪魔してすまん」直ぐに自分の部屋に向かう。
その日は何故かA運転手さんは捕まらなかった。
それでも、我輩の課員に情報通が居て(何処の課にもいますが)我輩が椅子に付くと、そ~と寄ってくるや
「△△課長が亡くなられましたよ・・」と耳打ちした。
「なに・・△△課長が亡くなっただと?」初めて聞く振りで聞きなおす。
「君 ちょっと来て呉れ」と打ち合わせ室に連れていった。
「△△課長が亡くなられたと言ったが本当か?ホントなら、そのことを、もう少し詳しく話してくれないか?」
「何でも11時ごろ急に気分が悪いと言われて、そばに居たBさん(課員)が課長の顔を見ると顔色が変わっていたとか?そこで直ぐに総務に電話して“至急救急車を頼みます“ と頼んだらしいです」
「総務とは何かと問いただされたようで、そこで少し時間がかかったとか?」
「で・・・・・」それを聞いていた△△課長が
「自分で車で病院に行くよ」と机から立ち上がられて歩いてエレベーターまで行かれたようです・・・」
「で・・・」
「そこ(エレベーター前)で倒れて吐かれたとか?」これは大変だと課員2~3人で1階の総務に連れて行き直ぐに社の車に乗せて例の病院(会社の専属病院?)に運んだそうです、然し途中で道路が混んで進めなく後部座席の課長の呼吸は止まったとか?」
「う~ん~~で・・・」
「運転手は、たまたま其処がK警察署の前だったので車を道路脇に止めて、警察署に飛び込み急を告げてパトカーの先導を頼みやっと病院に着いたらしいです」
「でも、病院に着いたときは、もう亡くなられていたそうですよ」
それ以上聞くに堪えなかった。
「君 ありがとう」自分の席にどうのようにして戻り座ったのか?今でも覚えていない。
その日のことは、それ以後 全く覚えがない。
死因は“くも膜下出血”だったと後から教わった。享年50歳だった。
http://neurosurgery.med.u-tokai.ac.jp/edemiru/kumomakka/shou.html
発作から死に至るまで20分も無かったようだ。
その死は余りにもあっけない“死”だった。
私が“くも膜下出血”と言う危険 極まりない病名を知ったのはその時であった。
後(ノチ)に聞くに、この“くも膜下出血”は発作時に、バットで殴られたような、もの凄い痛みが頭にあるとか?その他イロイロと症状があるとか?
よくエレベーターまで歩いて行かれたと思う。
温厚な人柄の印象が今でも脳裏に浮かぶ。
アレからもう40年近く経った。月日の流れは早い!
彼の眠るところは相模湾が望める小高い丘にあり遠くに富士も見える。
丁度 今頃は富士山が綺麗に見える時期だ。
毎年お参りはして居るが今年は行けるだろうか?
もう我輩も歳だ。我家から車でも高速を使って45分は掛かる。
衣笠の入り口から高速に入るインターでの標識が紛らわしい?
三浦(南方向)行きと朝比奈(北方向)行きの分岐点だ。
そこで間違いかけたことは一度ならずある。
若しも間違えれば高速道路を逆行することになる。歳の所為か?
瞬間、あれッ?間違えた?と錯覚するのだ。
標識の手前で停車して確認する、このころだ。
カミさんは
「あんなところで間違うの?」と不思議がる。
後続の車が慌てて急ブレーキを踏む音がする。
追い抜きザマに「バカ野老(?)!」と怒鳴られる。
紅葉マークは付けてあるのだが?
若い頃には思いも着かぬ間違い?錯覚が生じる年齢になったらしい?
最近は電動自転車でも我家への帰宅の坂道は苦しくなった。
カミさんは「自転車も乗るな!」といい始めた。
中でも36歳で亡くなった教え子のA君です。20数年経つが5年ごとにクラス会を開き彼を追悼している。彼は卒業後亡くなる年まで我が家へやってきて
自分の現状や夢を語っていた。別れの日は辛くて涙した。今も時々夢に出てくる。
今夜も寒さが厳しい。車のエンジンかかるかな?
これが歳をとる現実なのでしょうね。
三浦半島は岩国より暖かいようです。この冬では未だ雪は見ていません。今(7時半)の庭の温度は8度でした。窓を開けると冷たい風が入り込みます。
室温は30度あります。朝からカミさんと「暑い!」「これでいい!」と遣り合っています。
(苦笑)