還り見れば酔生夢死か?

80歳代の聾人でネットの話題を書いています。足が悪いので家で得ることが出来るネット情報と私自身の唯我独尊の偏向文です。

どうなる?中国の野望

2013-12-08 04:34:46 | 政治

 

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http://sankei.jp.msn.com/world/news/131208/chn13120803090001-n1.htm 以下全文

論説委員・渡部裕明 「煬帝の墓」と蘇った亡霊

2013.12.8 03:08  産経新聞 

 「隋の煬帝(ようだい)の墓を確認」

 先月16日、中国・北京発のこんなニュースが新聞を飾った。

江蘇省揚州市の工事現場から、れんがを積み重ねた2組の墓が発見された。

玉器(ぎょっき)や銅器などの副葬品があり、中国考古学会が「煬帝とその妃の墓」だと発表したという内容だった。

 隋は西暦589年、中国を統一した王朝だ。

煬帝は推古天皇15(607)年、日本(倭国)が小野妹子ら遣隋使を派遣したときの皇帝で、日本の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれていたのに激怒したとして、よく知られている。

 ◆血塗られた王朝の歴史

 唐、宋、明、清など中国には輝かしい王朝の歴史がある。しかし、いずれも前王朝を倒して建国された。

永観(えいかん)元(983)年、渡宋した東大寺僧・●然(ちょうねん)から日本では代々、血のつながる天皇が即位し、臣下も世襲するとの説明を聞かされた太宗(たいそう)皇帝が「これこそ古(いにしえ)の理想の道」と嘆息した話は有名だ。

 煬帝の墓については、その後の報道がない。

現代の共産党王朝には、煬帝など誇るに足りない存在なのだろう。

 1400年前の日本といえば、大臣(おおおみ)の蘇我馬子と摂政・厩戸(うまやと)皇子(聖徳太子)による共治政治が行われていた。

政権にとって最大の課題は、不安定な内政と東アジアの複雑な国際情勢にどう対処すべきかということだったろう。

 用明天皇の2(587)年には、「崇仏か排仏か」で争っていた蘇我氏グループが、物部氏を滅亡させる“物部戦争”が発生した。

さらに崇峻(すしゅん)天皇5(592)年には、天皇が臣下の馬子によって暗殺される衝撃的な事件も起きている。

 歴史上初めてとなる女帝(推古天皇)が誕生した背景には、こうした朝廷の動揺を鎮める意図があったのだ。

敏達(びたつ)天皇の大后だった推古は、それができるカリスマ性を持ち合わせていたのである。

 推古天皇の治世は、古代では極めてまれな36年もの長きにわたった。

しかしそれはむしろ、蘇我氏と他の豪族との対立がいつ暴発しても不思議でない状況で、女帝以外にこの危機をおさえ込む役割を果たせなかった証明ともいえるだろう。

 ◆日本が求めた対等外交

 対外関係となると、それ以上に難しいものだった。

大和政権は4世紀以来、大陸の先進技術や資源を求めて朝鮮半島と深く関わっており、南部には「任那(みまな)」と呼んだ権益地域があった。

それが6世紀後半、力を強めてきた新羅(しらぎ)に次々と蚕食されるようになった。

 友好関係を結んでいた百済(くだら)からも、支援要請があったのだろう。

飛鳥の朝廷は推古10(602)年、厩戸皇子の弟・来目(くめ)皇子を「撃新羅将軍」に任命し、兵2万5千をつけて九州に出陣させていた。

ところが皇子が突然亡くなったため、渡海は中止されたのである。

 このような情勢下、隋王朝の建国は、朝鮮3国(高句麗(こうくり)、新羅、百済)や日本に深刻な影響を及ぼしてゆく。

日本は隋と「対等の外交」を求める一方、その後ろ盾を得て、朝鮮3国との交渉を有利に進めたいとの思惑があった。

 しかし、日本外交には経験不足という欠陥があった。

例えば第1回遣隋使は600年に派遣されたのだが、「日本書紀」には全く記述がない。

使節団が屈辱的な扱いをされ、得るものもなく、記載をはばかったと考えられている。

 ◆「専制権力」のたどる道

 1400年前の東アジアには、このような緊張感が漂っていた。

竹島や尖閣諸島をめぐって韓国と中国の対応が先鋭化し、中国が一方的に防空識別圏を設けてきた現代と、変わらない状況かもしれない。

 とりわけ中国の習近平政権は、「中華民族の偉大な復興」を重要なスローガンに掲げている。

経済力と軍事力の伸展を機に、アヘン戦争(1840~42年)以来の屈辱の歴史をはらそうというものだ。

尖閣の奪取は、その第一歩と位置づけているに違いあるまい。

日本がこの野望と向き合い、対峙(たいじ)してゆくには冷静な判断力とともに国を思う厚い心がいる。

 かの煬帝は、高句麗への度重なる遠征戦争に失敗し、国内で大規模な反乱が起きて部下に殺されてしまった。

現代中国のリーダーたちが、国際的な法秩序を無視して無謀な領土拡大戦略を推し進めるなら、煬帝と同様の結末が待つと考えるのは、筆者だけではないだろう。(わたなべ ひろあき)

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↑ お断り : 原文は赤字に着色はされていません。 行間・文章の区切りは視力・頭の弱い私が読みやすいように勝手ながらあけさせてもらいました。

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 つぶやき 

  「歴史は繰り返す」  歴史は形を替えて繰り返へしている。本質的な中身は同じである。 

海底の地下資源が発表されるや・・・それまで歯牙にも止めなかった日本領土の尖閣列島を奪おうとする中国の野望は国際間の「法」すら無視してゴリ押しして来ている。  

そして今や尖閣列島を巡る中国の地下資源(エネルギー)の獲得に絡んだ領土拡大の野望は一触即発の段階にきている。 

中国の資源獲得の野望は世界中に手を広げて来ている。中国の工作員が世界にありとあらゆる資源を求めて活躍していることはいまや世界から注目され非常に警戒されている。

http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/131207/wor13120712050016-n1.html

それに無頓着なのは日本のみかも?

今の中国は衛星を打ち上げたり・・・打ち上げた衛星を爆破したり? 月に向かい宇宙船を上げる計画をしているが・・・報道の真偽に関する中身は我々には一切 不明である。

今の中国は急激な経済・軍事の発展に国内が付いていけない矛盾も秘めている。

貧富の差は益々広がりいつどんな形で爆発するか分からない。

 国民の不満を逸らすのは国外に国民の目を逸らすのが一番 手っ取り早いが一歩 間違えれば連なる不満は一挙に現政府(共産党)に牙を剥くおそれがある。

新しい刀を手にすれば切れ味を試したくなるのは世の常かも?

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今朝の気温は何故か? 10 度ある。寒さも何時ものように感じない。空は星は見えない。

薄曇りのようだ。 (午前 4時)  

 * 煬 帝

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D 

 推古天皇

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87

 ↑ からの一部 抜粋   下記記事 

>祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后飯豊皇女を歴代から除外した場合)。<

**  天皇暗殺事件は知らなかったな~・・こんな重大なことを知らないなんて・・・学生時代 よほど遊んでいたのですね。  それとも I Q 不足? かもね?  

 


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2 コメント

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中国の野望 (ひろし爺1840のGooブログ)
2013-12-09 10:07:04
!(*^_^*)!Osamuさん、お早うございます!
自宅前の世界遺産の島・宮島の民話に御付き合い頂有り難うございました。
今夜からお天気が悪く成る様なので、温かくして風邪を引かない様気を付けましょ~!

☆今日の余禄とつぶやき拝読!
中国って何を考えているのか判らない国ですね~!
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('_')今朝は四国巡礼をお休みし私の住む所を動画とDBでアップしましたので御付き合い頂ければ幸せます!
('_')閲覧感想のコメントを、お待ちしていま~す!バイ・バ~ィ!
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ひろし爺1840 さんへ (osamu)
2013-12-11 04:48:56
中国は益々野望をあらわにしてきたようです。「止まるところを知らず」です。以前 米国にハワイを境に太平洋をわが国(中国)と二分しようと言っていましたが本気だったようですめ。米国は冗談だと思ったらしいですが? 以前 海南島に行った時に日本の旅行の係りの人が中国の世話役に約束(時間)を守らないことに、もの凄い抗議をしていました。喧嘩が始まる?と思ったくらいでした。あとで聞くと・こちらが大人しくしていると、あとのスケジュールが大幅に狂うから、その都度・強く抗議しているのだ・・・と言われていました。中国人に約束を守らせるのは大変なようでした。 責任感がないようでしたね。それは中国を離れるまで続きました。 成田に着いた時はホッとしました。 よほどシッカリした方と一緒でないと行けない国ですね。 それと中国のトイレの汚いのには閉口しました。10数年前です。 

そういえば ひろしさんの旅行記に中国を見かけませんね。雲南省の棚田などDVD映画で見ましたが綺麗でしたね。 
私が見逃してのでしょうか?

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