ケーブルテレビで「ゴジラ対コング」なるアメリカ映画を見た。小栗旬さんが出演してるそうで、どうかしらと見てみた。
冒頭からコングもゴジラもモンスター扱いで、クリーチャーの一環とうかがえる言いまわし、描写の連発に食指が急速に萎え、「あー、またかよハリウッド」と辟易とした。
アメリカ映画も邦画も、ある時期からまったく表現媒体としての破棄を失って、損なって、回復できないってのを、無自覚に「売れ筋」の脚本へ逸(はや)る愚挙に出て、日に日に弱体化していってる心地がします。
ゴジラを「モンスター」に位置させて、「ゴジラってのを世界のどっかの国でアメリカ映画として初めてこれを見る」っていう国民に優しい配慮に満ちた経略モノローグたちだが、生粋の日本ゴジラを見て育ってきた世代には、「この扱いよう」という冒頭からの侮辱みたいなあしらいに、軽く偏見を覚えた。
最近でいうなら、売電(お、ナイス変換ミスだな、ウインドウズ)バイデン大統領が、インドネシアの方で戦争での遺骨が出にくいには、食肉の風習のせいだ、みたいな偏見を披露なさったが、あれに似通う「見下げた」フェーズでのあしらい、そのものが不快に感じるのに似てる。
返せば、このイントロに不快を覚えた自分なり、その同意者はゴジラに「モンスター」以外の感慨を抱かせてもらえてたってことになる。
「パシフィックリム」のデルトロ監督の「カイジュウー」観の方がはるかにリスペクト間に満ちており、精緻に掌握なさってると感覚するでしょう。
信仰に等しい「強いものを神と奉(たてまつ)り、怒りをおさめ、あがめもする」日本の古来からの風習にのっとる儀礼が、万国にあまねく流布するとまでは傲慢になれないが、ある種の「日本アニメクオリティ」にも通じる諸外国のリスペクトにも似た見やりようは、デルトロさんができてたように、映画に込めようも、際限のしようも、ありえる精神性なのがわかる。
それを当該映画は「モンスター映画の一環」に据えなおしたものであり、一種の大型ディザスター映画でもある、みたいな「見世物」観がぷんぷん香るのが嫌気をもよおした最たる理由だろうなあ。
そう思うと、円谷映画がそのごく初期からゴジラに仕込むことのできた、ある種の和風な信仰半分のテイストは、「怖さ一辺倒」「被害甚大な存在」などというモノカルチャーっぷりを敬遠もしてたんだって思い返せます。そしていままだ、アメリカで映画化されるときの、上に挙げたような「世界に興行する際の、儀礼的な通過方法として、見た目からピンとくる、期待させやすい方のモノカルチャームービーとしての、まずまずの浸透」をセレモニーとして、とっくに一回りしてる日本人も付き合ってみなくてはならんのかあ、と軽くため息をついちゃうのでした。