子供のうちに一番強く抱いた感情を、大人になって多用し、礎にするでしょう。
今の中東やウクライナで幼少を過ごした子どもたちが抱く感情がなにかはわからぬ大人はいまい。
自分たちが見立てたいようにしか、事態を掌握しに行かなくなる時、相手側の心象を無碍にする態度が免れなくなる。
バードストライクを事由にした当初の言い草すら空々しくなっていく。
極東に生まれ落ちた命が因果からスラブの地で落命し続けている。
これら三つの記事に通底する「人がここに感情を抱くとすれば」には同じ無念が激しく宿る。
遠からぬ未来にわたって、諍いと報復と軋轢がもう萌芽して見える。
蒔いてしまった種は芽吹く。
蒔かねば生えもしないで済んだのに。
こころの用い方、が生き方になるんだもの。
起きることは起こることで容赦しても、こころがどう思いに向かうかは、「これから」の組み立てへ設計図のように作用します。
なのでこころが鍛錬されてるかどうかで事態は向きも歩幅も姿を変えてしまう。
効率、で量れば荒むでしょうね。でも今この国はその物差しをあてがうのを隠しもしない。
渡す心が、培うものを変えるのに、「効率」標榜してどうなると?
地域ってさ「効率」以外で繋がってると思う。
きっと「効率」なんかで計れば「復興」「復旧」は「割に合わない」などと早々に結論するのが震災なんだろう。
こうまで国が「救いにかからない」のはショックを覚えたし、心根に残念で無念で嫌な気持ちがよぎる。
残って根を張り直すと心した人たちの言葉の濁りのなさがすごくいい。
本当に能登の景色が人を育んでくれてた。
日本は震災の多い国なのは承知のはずで、これまでにない高額の納税額に至った今年が、能登にお金も人も回さない国なのを知った。
もうすぐ1年経つ能登地震。
日本のどこも、今後「これと同じ目」に遭います。
前例主義のやりようは悪い例を能登に隠さなかった。
能登、本当にいいところだから、残った人たちに心躍ることがあってほしい。
土地柄、なるものは震災後にも香るし、その継続は文化であり雰囲気であり人柄だもの。そここそ「活かす」とこに軸足がある方がいい。
コンパクトシティなどというフレーズに沿わぬ土地柄は外野の効率先行な言い草に乾いて響くよ。
「震災は起こったけど、この国でいてよかった」ってなるかな?
人々の助け合いは素晴らしいのに。
でも日本国、随分冷たかった。
思い直せる部分はすごく多い気がする。