桜ノ宮高校体罰自殺事件や柔道女子集団JOC直訴事件に続き、先週金曜日発売のフライデーにて、
今度は佐野稔氏の体罰(疑惑)が明るみに出ました。写真を見て、ご本人のお説を聞けばかっこはなくてもよさそうですが、
一応現場を生で見たわけではありませんので(疑惑)としておきます。
フィギュアは他のスポーツとは毛色の違う性質が濃いと個人的に思っていましたので、体罰とはあまり結びつかない
イメージだったのですが、残念ながらそうではなかったようです。
そもそも、なぜ学校の教師やコーチ、監督たちは体罰をするのでしょうか?
ここで問いたいのはその目的と理由です。
強くするためですか? 上下関係を知らしめるためですか? あるいは、見せしめのためでしょうか?(これは桜ノ宮が該当しそうです)
体罰を振るう側にも言い分や論拠があるでしょう。あちこちで露見しているのはそれだけ、体罰が指導現場で暗黙の裡に正当化されて
いるからではないでしょうか?
しかし、果たして体罰を行うことによって効果は上がるのでしょうか?
もちろんすべてのケースにおいて検証するのは不可能です。なぜなら、体罰があったことが明るみに出ないケースがほとんどで、
むしろ体罰があったと分かるのはほんの一部、氷山の一角にすぎないからです。
ですから、顕在化しているケースや、私が知るケースを元に検証するしかないのですが、結論を先に言うと効果があるかについては
はなはだ疑問だと考えます。
まず、極端な例示をするならば、先般の桜ノ宮高校の例は著しく問題があり、その上当該教師や直接の関係者のみならず、過去にさかのぼり
OBにまで問題意識が欠落している傾向が見受けられます。
言うなれば、結果を出すこと>人一人の命と受け取られかねない署名活動などです。
もはや当該教師のみならず、学校の伝統として結果至上主義の権化と化していると言っていいでしょう。
もちろんスポーツにおいて結果を出すことは大切です。また、教育現場として時には厳しく指導する必要性があることは論を待ちません。
しかし、その過程においてどうしても、体罰は無くてはならないものなのでしょうか?
ここで私が実際に見たケースをお話ししましょう。
私は中学時代、テニス部に所属していました。担当顧問は中年の男性教諭で、かなり厳しい指導者でした。それは特定の生徒(選手)に
対してではなく、大抵の場合全員に対してですが、一度体罰を巡って保護者を巻き込み騒ぎになったことがあります。
体罰に至った発端はかなり月日がたっているので詳細は失念しましたが、その顧問はラケットで生徒の頭を叩いたのです。
叩かれた生徒は大けがには至りませんでしたが、フレームが当たったため顔に怪我を負い、事を重大ととらえた保護者が
学校に出てくる顛末となりました。
体罰を振るわれた生徒はその後数日部活を休み、しばらくして復帰しましたがその後の戦績は振るわなかったことを覚えています。
学年が違ったこともあり直接話は聞けませんでしたが、体罰を受けたことによる精神的ショックが相当大きかったようだと聞きました。
このケースはまだ軽症で済んだ例ですが、最悪の顛末を迎えてしまったのが先の桜ノ宮の事件です。
いち教師だけの問題だと私は思いませんが(周囲にも大いに問題ありと考えます)しかし体罰が自死を選ばざるを得なくなるまで
生徒を追い詰めたのは紛れもない事実でしょう。どれほど当該教師が謝罪をしても取り返しのつかない事態を招いてしまいました。
もちろん生徒の性格もまちまちなので、同じケースでたとえ体罰を受けてもさほどダメージを受けない場合もあるでしょう。
むしろ、今までそんなケースが多かったからこそ体罰は黙認されてきたのかもしれません。
しかし、だからと言って今後も連綿と続けて言ってよい風習であるとは、私には思えません。
柔道のケースを見ても、国際的にはなはだ奇異且つ野蛮な行為であると判断されてしまったのもやむを得ないと考えます。
少なくとも、体罰という行為は国際標準として黙認されることはないことは確かです。
また諸外国からどう見られるかは別としても、問題は他にもあります。
たとえば、体罰を原因とした事故が起きた場合、速やかに公表・責任追及ができるか疑問であることです。
これはつい先日明らかとなった、山形の事例が証明しています。
教師の体罰が原因となり、鼓膜に損傷を受けた生徒と部に所属する生徒全員に対して、教師は口封じ工作を行ったことが
明るみに出ました。教師が体罰を行い生徒に大きなけがを負わせたこと、そして口封じを行おうとしたことと二重の問題を起こしています。
加えて指摘するならば、黙っていろと圧力を加える=パワーハラスメントでもあるでしょう。このようなケースはおそらく、潜在的に
他にもあるものと思われます。
しかしこれは、明らかに目的や理念を大幅に逸脱し、生徒の人権や指導者の誇りさえ失われた問題ある事件です。
この件についても、桜ノ宮高校の事件同様に徹底した原因追求と再発防止に向けた調査が必要だと感じます。
ここまで行かなくても、大なり小なり体罰は事故を引き起こす可能性を大きくはらんでいます。そもそも、普通にスポーツをしているだけでも
事故が起きる可能性は何もしていない時よりも大きいのですから当然です。その上、体罰を行うとしたら何倍にもリスクは高まります。
子どもたちも保護者も、怪我を負うためにスポーツをしているわけではありませんし、競技において更に上に行きたいのであれば
尚のこと無用のけがは避けたいのが本音でしょう。事実、様々な競技においてトップアスリートと呼ばれる選手たちはいずれも体調管理が
非常にうまくできている選手が大半です。(もちろん、例外もあります。どんなことに関してもですが)
それ以前に、人間の体についてはそのすべてのメカニズムが解明されたわけではなく、特に脳に関してはまだわからないこともあると聞きます。
多少のけがは治療と時間で治りますが、それが大きなけがであったり、そのメンタルに大きな傷を負った場合は治癒に多くの時間を費やさざるを
得なくなります。そして、件の最悪の事態を招いてしまう可能性すら秘めているわけです。
昔は中学高校のみならず、スポーツに根性論がまかり通り、練習中の水分補給さえ許されないケースもままありました。
しかし、スポーツが科学的に分析できるようになり、またより高度に技術を要求されるようになった昨今、精神論だけで指導が何とかなるほど
スポーツが甘いものだとは私は思えないのです。
つまり、頑張りが足りない(その他教師やコーチの観念的なものによる理由)→体罰を振るう→生徒が伸びるというように、意図する通りに進むと
確信できるほど、体罰は有用な手段であるとは言えないということです。
たとえば、間違った行動をしていたのを注意するのであれば、それは体罰によらなくてもできると思います。あるいは、団体競技などでチームワークを
乱すなど、精神的な指導をするにしても同様です。
いくらチームのリーダーであったとしても、みんなの前で見せしめ的に体罰を振るうことは、本人のためにも他の生徒のためにもおよそ良い方法とは
言えないと思います。その場合、委縮を生み生徒の視野をより狭める方向に行く可能性、つまり成長を促すつもりだったとしても逆効果ではないでしょうか?
現に亡くなった生徒はその体罰のし烈さに耐えかね、教師に不満を訴える手紙をしたためていたそうですが、周囲の部員に止められて結局
渡せなかったと聞きます。これは、他の部員が極度に委縮していたこともその行動要因として指摘できるでしょう。また、そのまま行動に出た場合、
亡くなった部長が更にひどい目に遭うかもしれないと考えたのかもしれません。これはあくまで私の推測の域を出ませんが……。
そして「教育」という見地からも、体罰は生徒と一日中過ごすわけではない教師やコーチには危険な指導手段であると私は訴えたいと思います。
親子間であっても、昨今はしつけの一環としてさえ手を上げるのをよしとしない=虐待であると親の側を弾劾する、こういう潮流になって
きています。
これに関しては必ずしも私は同意しかねるのですが、それは親と子であれば大抵の場合住居を共にし同じ食事をとる―つまり、一つ屋根の下に
いる時間が相応にあり、たとえ厳しく叱ったとしてもその後に様々な形でフォローすることが可能だという理由に起因します。
自分にも子供がいるので実感を込めた話になりますが、押すばかりでなく時には引いたり飴を与えたり、家庭ですらしつけという教育は並大抵の
ことではありません。ましてや学校やクラブでは、赤の他人の生徒たちが大勢いるわけです。しかも、その個性はまちまちときています。
そんな彼らを指導することがどれだけ大変なことか。それは推測に余りあるものでしょう。そんな一人一人に対して、教師やコーチが我が子のように
丁寧なフォローができるでしょうか? 多くの場合、まず困難でしょうし果てしなく不可能に近いとさえ言えます。
生徒であり、親にとっては子供である彼らは未熟ではありますが、当然のように大人とは別個の人間であり、別の感情を持ちます。また、
心だけは誰にもいかんともしがたい聖域です。
体罰を行っていた教師やコーチにも言い分はあるでしょう。彼らなりの論拠に基づいて行っていたのかもしれません。
しかし私はあえて問いたいのです。体罰を行ったその時に、1ミリたりともあなたの感情に起因されたことはありませんでしたか? と。
また、もしもあなたが体罰を行ったことにより、後遺症が残るような大けがや自死へ追い込むような重大な事態を引き起こすことを
想定したことはありますか?
そして何より、叱るだけでなく充分に生徒たちへ愛情をこめて指導してきたと胸を張って生徒たちの前で言えますか? と。
真っ当な神経をまだ持ち合わせている指導者ほど、上記の問いに頷くことをためらうのではないか。私はそう思います。