歌うように語ろう

観劇や観戦(主にフィギュアスケート)等について語るブログです
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スポーツ放送の在り様に疑問。そしてフィギュアはまだスポーツなのか?

2013年03月17日 | フィギュアスケート

2013カナダロンドンにおけるフィギュアスケート世界選手権が終わりました。

アイスダンスやペアはともかく、男女シングルは本当に唖然とする採点で、ジュニア世界選手権に続き語るべき言葉が

なかなか見つかりません。率直に言って、試合前から勝者があらかじめ決められていたのではないかと疑念を抱くほどに

後味の悪い結果となりました。

 

それにしても、フジテレビのスポーツに対する解釈や放送の在り方には毎度のことながら不快感を禁じえません。

先日は自局での放送が叶わなかったことに加え、フィギュア放送に注目させたかったためなのか、WBCや野球について

著しく野球ファンの神経を逆なでするような恣意的放送をしていましたが、根本的に彼らにはスポーツ競技やアスリートへの

リスペクトが欠如しているのだろうと思われます。

また、スポーツ放送においてほとんどのファンが望むであろうLive放送には程遠い、半日ほども経過(SPはそれ以上経過)

してからの放送に至っては、数字狙いしか考えていないと言っても過言ではないでしょう。

ただ、今回彼らが狙うような効果がもたらされる結果にはならないだろうことは、茶番とも言える採点結果から透けて見えます。

コアでじっくり観戦したいフィギュアファンはともかく、ライトファンやこの結果に食傷気味な人などは見ないという選択を取った

人もいるでしょう。事実、私の身近にもいますので。

 

以前にも書きましたが、スポーツとは筋書きのないドラマであり、より高みをめざすものであると私の中では定義づけています。

どんな採点でも目の前に数字が差し出されたならそれを盲目的に支持できる人ばかりではありませんし、最近はついに

コーチなどの関係者からも疑問の声が上がり始めています。

少なくとも、現在の採点システムに問題があることだけは言えるのではないでしょうか。

 

芸術的な要素を含むとはいえ、オリンピック参加競技である以上は最低限「競技(スポーツ)」としての節度が必要ではないかと

あらゆる角度から見て思いを禁じえません。

見る人の多くがストレスを感じたり、疑念を抱くような競技はきわめて不健全であり、本当にスポーツと胸を張って言えるのか疑問です。


今年の一票より子々孫々を見据えよ

2013年03月11日 | 日記

昨日までのうららかな気候がなりを潜めて、寒気が戻り3.11を迎えました。

関連死を含めると2万を超す犠牲者に、いまだ不自由な生活を余儀なくされている被災者の皆様には心より哀悼ならびにお見舞い申し上げたいと思います。

 

政府や各公共団体には、まず国民及び住民の生命や健康を何より優先し守る責務があることを深く肝に銘じていただきたいと強く願います。

戦争中ではなくとも、残念ながら報道統制という現実はあります。多くの国民が知らされないまま、臭いものに蓋をするがごとくに開示すべきデータが

一体どれほど隠避されているのか、それを全て把握している人はほとんどいないと言っていいでしょう。

 

しかし、繰り返しますが政府や各首長には国民ならびに住民の生命及び安全、健康を守る責務があります。

「ただちに影響がない」=安全、ではないことくらいもうほとんどの国民が察しているのです。

 

思い切った政策を打ち出すとなれば、票が流れ苦境に立たされること、すなわち下野する可能性まで政治家としては考えねばならないのでしょう。

けれどもその前に、一人の人間として、また良心を持つ政治家として彼らに自負があるならば。今有権者として票を投じることは出来なくても

いずれ我が国を背負っていくことになる子孫に顔向けできないような施策だけは選ばないでほしいと祈るばかりです。

 

地震と津波だけではなく、原発事故が追い打ちをかけたことで更に東日本大震災の復興への道のりの厳しさは深まっています。

目先の益を優先するのではなく、長期的に見て何が大切なのか。そのためには何をなすべきなのか。

安倍総理や政府与党のみならず、各公共団体の長、そして地域社会を形成する私たち一人一人も自己の利益のみを追求するのではなく

個々に考え各々が自らのなすべきことに真摯に邁進するべきであると改めて今日思いを至らせるのです。

 

3月11日。この日は決して忘れえぬ日として子々孫々に言い伝えるばかりでなく、自らの身と行動、生き方をも顧みる日としたいと私は思っています。

この国のかじ取りをする中枢の皆様方にもより一層高邁で建設的なお志を確かめる日としていただきたいと願ってやみません。


闇が広がる

2013年03月10日 | フィギュアスケート

田村岳斗氏のテクニカルパネルに対しての疑問が、どうやらジャッジ盲信主義者の琴線をかなり刺激したようですね。

7日に続き9日に投稿された記事にはさらにエスカレートし、恫喝じみた発言や罵倒発言、あげくに何を思い上がったのか

自らのブログへ誘導する投稿までなされていてしみじみあきれ返りました。

名前は出しませんが、自分のブログを田村氏に読むようしつこく主張している人物は素人のフィギュアファンです。

以前その方のブログを拝見したことがありますが、自説に対して絶対的な自信をお持ちの方のようです。

しかし、田村氏相手に自分のフィギュア論を押し付けるのはまさに釈迦に説法というものでしょう。ジャッジを盲信するあまり、

かつて競技者であり、今は解説やショースケーター、そしてコーチとして活躍されている方への最低限の敬意すらないとは

その時点で誠に恥ずかしい方だと断ぜさるをえません。大変残念なことです。

 

私はめったによそのブロガーさんにはコメントしませんし、ましてや今回の田村氏の主張に不満など毛頭ありませんので黙って見守って

いましたが、あまりの惨状に自らの考えを今一度コンパクトですがピンポイントで書いておきたいと思います。

 

今回、いみじくも田村氏の発言に対する反応で明らかになっていますが、今おかしいのは「おかしいと思ったことをおかしいと

発言すると(特に採点関連)、それを封じようとする動き」がフィギュアスケート界において生じるということです

しかも、言論の自由が法律で保障されている法治国家日本においてです。

 

他のスポーツをご覧になる方ならご存知でしょう。人間が審判するのですから、判定自体にミスが生じることやあるいは何らかの疑惑が生じることは

事実として多々あります。ジャッジも人の子ですから、ミスや意図的あるいは無意識な不作為などもあるかもしれません。

そのような時に、実況や解説は普通に疑問を口にしますし、そのことに対してタブー視する空気もありません。試合の結果や

競技のあり方について喧々囂々と論ぜられることがありますが、そもそも肯定的否定的を問わず、何か意見を言ったら弾圧されるような

風潮は、きわめて得意且つ異常であると言わざるを得ません。あくまでもフィギュアスケートが「スポーツ」のカテゴリーに入るなら尚の事です。

フィギュアにおいても採点やエラー、URやDGなどの判定がすべておかしいと疑問を抱く方々は言っていないでしょう(少なくとも私はそうです)

そのように主張する人たちに対し、あたかも自らがジャッジの代理人であるかのような高慢な物言いでねじ伏せようとするジャッジ信者たち。

ましてや自分が応援する選手が勝てなかったから文句を言っているのだなどという揶揄に至っては、全く唾棄すべきばかばかしい主張です。

 

本当に採点システムに問題がなく、ジャッジの良心や技術的な知識が十分である、つまりなんら後ろ暗いところがないのであればそれこそ一般の

ファンが何を言おうと受け流せるのではないでしょうか? そもそも、本当に疑惑がないのであればそういった声はあまり上がらないはずではないですか?

 

本当に正当であると思っているならば、なぜ国内の声にばかり異常に反応するのでしょうか?

ついでに言うならば、海外で上がっている疑問に対してはどう説明するのですか? やはりいつも通り、「ジャッジは正しい! 素人が意見するな!」ですか?

ジャッジングに対する疑問を口にするのは、むしろ海外の関係者やファン、解説者の方が多いのですがそちらに対してはあまり物申す気配は

感じません。もっとも、私も海外のあらゆる意見を網羅しているわけではないので(当然ながら)海外の記事を紹介されるブロガーさんや

海外解説の動画で知る限りですが、日本のようにおとなしく唯々諾々と審判を受け入れるのではなく、大いに物申す解説者(元選手も多いですね)は

枚挙にいとまがありません。

 

少なくともおかしいと思ったことをおかしいと主張したり、何らかの提言をする人に対して頭から否定し弾圧しにかかるような動きが起きる競技は

健全な競技とは言い難いと私は考えます。

ましてや今回声を上げられたのは現場に身を置くまさに「関係者」です。それこそ以前少しフィギュアをかじっていた程度の方やルールブックを見て

自らも関係者の気分になっている方とはわけが違います。本物の関係者に物申すことができるほど、現場で何が起きているかそういった方々は

わからないでしょう。

素人がプロに向かって意見するなとは、まさにあなた方のためにある言葉ではないでしょうか? 天に唾吐くとはよく言ったものです。