GPシリーズのアサインも出たので何か書きたいのはやまやまなのですが、ちょっと気力がわいてきませんので手始めに?雑談など。
実は先月に父が他界いたしました。
ここ2年ほど少しずつ老いが急速に進み、そして直近の1年ほどを寝たきりで過ごしましたのである程度覚悟は出来ていましたが、
かといってやはり本当にいなくなってしまうと感情の整理はなかなかつくものではないと今更ながら実感しております。
詳細はSNSではない場ですのでここでは割愛いたしますが、父のターニングポイントになった戦争と帰還後生涯追い続けた「生きることの意味」を
最期まで父は問い続け生を全うしたと私たち家族は承知しております。
あまりにも簡単に命が失われていく昨今、世間の子供たちも簡単に「死ね」「死んでやる」と言ってのけます。
しかし人のみならずこれだけは誰しも平等に、命は一つだけです。途中下車して再び乗り換えなどできないのです。
人生はゲームではないし、リセットボタンなどどこにもないのです。
こんな傾向は身近で人の生き死にを見ることがほとんどないゆえの想像力の欠如から来るのではないかと私は思います。
生きていれば格好悪いことや苦しいことなど山のようにあります。むしろ楽しいことの方が少ないと言っていいでしょう。
父も最後の一年は本当に苦しそうでした。見ているこちらも辛くなることがしばしばでした。
それでも父は最後までその生を尊厳を持って全うしました。
おそらく最期の瞬間、後悔はなかったものと信じています。
父を見守り、母を支えるために兄弟や甥姪も協力しました。
私たちは異母兄弟ではありますが、最後に父はより兄弟の繋がりを、家族の絆を強くしてくれたと思っています。
父は最後に生き抜くことの苦しみと誇りを私たちに見せてくれたように感じています。
視線を世界に転じれば、紛争は絶えることなく罪もない人々が数多く亡くなっています。
父はまだ医療と介護を受け、家族に看取られ息を引き取ったのですから恵まれている方でしょう。
だからといって悲しみが簡単に癒えるわけではないですが、身近な人の死にまた対峙した時に、その人生に思いをいたし
今一度命とは何かと自らに問いかけ自分も生を全うしなければ、見送っていった命に恥ずかしいことだと思うのです。
いつか私が最期を迎える時に、自分に恥ずかしくないように。日々を真摯に生き抜きたいと思った次第です。