オリンピックは平和の祭典といわれる。
古代ギリシャでは多くの死傷者を出す戦争を
一時中断しスポーツで戦う。それがオリンピックだった。
しかし第一次世界大戦ではベルリン大会が中止になり、
第二次世界大戦では東京大会、ヘルシンキ大会、
ロンドン大会が中止になった。
もはやオリンピックが戦争の抑止力にはならないことは
歴史が証明している。
戦争ではないがコロナ禍にもかかわらず、
7月21日から東京大会が始まった。
第二次世界大戦の東京大会のように
幻の東京大会になるかと思われたが
マネーゲームという戦争の中で
コロナを無視したオリンピックが始まった。
開催1ヶ月前から各国の選手団が到着すると、
正義を標榜する報道は「コロナ禍では開催反対」と
「メダル有望の日本選手紹介」の二枚舌を使いだした。
G7で各国からお墨付きをもらったことで加速した。
ただし協賛企業はオリンピック用の
CMやイベントを自粛している。まさに苦渋の決断らしい。
しかし、これとて日本が最初の金メダルを
取ればどうなるかわからない。
開催反対を叫ぶ日本国民も金メダルひとつで変わるだろう。
私は基本的にはオリンピック開催賛成派だ。
単純にトップアスリートのパフォーマンスが見たい。
がしかしである。江戸幕府が倒れ開国した時を境にして
日本では未知の病気が上陸し、
外来種の動植物や細菌・ウイルスが入り込んだ。
それは人知れず侵攻し、数年~数十年、
あるいは百年後にパンデミックを迎えることになる。
日本国内ではいまだワクチン投与が進んでおらず、
第5波の中、オリンピックが始まった。
そしてこれまた苦渋の決断で、「無観客」のオリンピックとなった。
21日夜に女子サッカー・日本対カナダ戦をテレビ観戦した。
国際試合では応援の声と鳴り物が煩いのが定番だが、
コロナ禍のオリンピック中継ではボールを蹴る音、
選手の息づかいまで聞こえる。
日の丸を振るサポータや客席のインサートがなく
ただ試合を坦々と撮っているのだが、
私は試合に集中できていいと思う派だ。
顔に日の丸をペイントしたにわか応援者のインサートを入れることで
感動を伝えようとする手法事態がナンセンスだと思うのだが
コロナ禍で否応なく無観客。
客席の様子をインサートできない事態になり
奇しくも番組制作者・中継担当者の度量が問われることになった。
現状は客席のインサートなしで試合を中継するという引算に終わっている。
かってはカメラの数が少なく、機材の機動力もなかった。
1936年ベルリン大会の記録映画『オリンピア』では
再現する(再撮影)という手法まで使って
オリンピックをプロパガンダに使ったこともあった。
やがて自国応援席のインサートだけではなく
あろうことか応援する選手の家族をインサートとすることで
人間ドラマを描こうとした。
「ごぉ~~~る!」と絶叫する実況アナウンサーに
スポットが当たることもあった。
高解像度の小型カメラやカメラのコントロール化、
クレーンなど様々な撮影機材が開発され
見たこともない新しいカメラワークが実現し
ワクワク感を高めたりもした。
しかしコロナ禍の中継では、無観客により
自国応援席のインサートはない。
パプリックビューイングも中止され、奇想キテレツの
アホスタイルの観客のインサートや間抜けなインタビューもない。
撮影スタッフも人数制限があり、大がかりな特殊機材も入れられない。
そんなコロナ禍で、どうすればオリンピックの感動が伝えられるのか?
果たして、コロナ前の中継スタイルから、
客席のインサートや見たこともないカメラワークの引算で
感動が伝わるのか?
はたまた客席のインサートに変わる何かを足して感動とするのか?
スタッフも特殊機材も制限された中でワクワク感は伝えられるか?
結局コロナ禍だから仕方ないとあきらめるのか?
コロナ禍・無観客で始まったプロ野球やサッカー中継では
引算+あきらめだったが・・・
コロナ禍で始まったオリンピックで、番組制作者の度量が問われる。
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