株式会社プランシードのブログ

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その45.不協和音(新人ナレーター勉強会②)

2012-09-01 16:55:02 | 制作会社社長の憂い漫遊記
2013年8月も終わる頃、まだまだ夏の暑い盛りに
新人女性ナレーターの勉強会の講師を2日間、
2週に渡って行なうことになった。
1回目は8月24日、2回目は8月31日。


(後姿を撮るなよ~。つむじの禿げ具合が気になる私)

今回受講した3名は、全員ナレーターを目指している。
今どきなので声優やスポーツレポーターかと思いきや、
ナレーターである。ナレーターとは、私の業界では
映像に合わせて作成した原稿を読む人であるが、
このナレーションの良し悪しで、
作品の出来不出来を決定的にされてしまう。
私が監督するPRビデオは、私が原稿を書く。
私の場合は、文章の量や編集のテンポは、
あらかじめ私が決めたナレーターの声質やテンポを頭でイメージしながら書く。
つまり、編集の段階ではすでにナレーターは決まっているのである。
映像作品の中で、ナレーションは音楽同様、音を構成する一要素である。
映像作品は、足し算ではなく引き算なので、
ナレーションが素晴らしければ音楽はなくても成立する。
歌手で例えるなら「アカペラ」と同じである。
逆に音楽でナレーションをより引き立たせることもできる。
オーケストラでは「管楽器」や「弦楽器」や「打楽器」や「けん盤楽器」が
時には絡み合い、時には引き立て合い、時には無視し合って
見事な調和が生まれる。しかも、耳に聞きやすいだけが「調和」ではなく
「不協和音」もまた調和である。
映像作品の中では「ナレーション」と「音楽」と「効果音」と「現場音」と
「インタビュー」などが見事に絡み合わなければ、
作品の味や風格が損なわれることになる。
だから私にとってナレーターの人選は、
カメラマンの次、もしくは同等の位置づけだ。

ナレーターありきで編集する監督が
PR映像の世界にどれぐらいいるかは定かではないが
私はこの方法をもう30年も作り続けている。
したがって、今回参加した新人さんを使うことは当面100%ない!
なぜなら、そもそも知らない人をイメージできないからだ。
「こうして授業で一緒したんだから、
ひょっとして共に仕事をすることもあるのでは…」と
淡い期待を抱いても、瞬時に藻屑と消える。
なぜなら、録音は監督として最終作業にして
もっとも技量とセンスが問われ、
お客さまに「作品の善し悪し」を判断されてしまう作業だからだ。
せっかく汗水たらして過酷な撮影をし、連日徹夜で編集したにもかかわらず
下手なナレーションを入れられたのでは、たまったものではない。

ナレーションは、練習をしたからうまく読めるというものではない。
声質は親から受け継いだものだ。
その声質を生かし、絶妙の間を身につけるには
練習ぐらいでは築けるものではない。
天性の勘とセンスがない人は、そもそもナレーターを目指さない方がよい。
しかし万一いい声を親から受け継ぎ、かつ天性のセンスがあっても
研究心から生まれる人並み以上の努力がないと生き残れない。
そもそも「誰でもナレーターになれる」と銘打って
ナレーターや声優、俳優の専門学校が乱立していることこそが異常なのだ。
確かに自称ナレーターは急激に増えたが、パイは大きくない。
ますます過当競争になる。そんな中で努力なくして
職業として生き残れるほど世の中、甘くない。



(初めてブースに入り、カフを操作する子も…)

閑話休題、それはさておき。
31日に行なった第2回目にして最終回の勉強会。
この日の1コマ目の課題は、私の出したナレーション原稿(約10秒)に
自分のイメージを絵コンテ化してもらい、その絵コンテに合うように
自分風にナレーションを読んでもらう。
下手なナレーターほど、作品ド返しで自分の世界に入り込んでしまう。
監督が「ちょっとイメージが違うなぁ??」なんて言おうものなら
パニくる方もいるので、下手な事は言えない。
だからなのか、最近の若手監督は
「いいよ~、いいね~、もう1テークいっとこ。」
なんて、いいんならやり直すなよ!と言いたいし、
どこが悪いのかぐらい言えよな!とも言いたいが…これがまかり通っている。

そこで、日常の彼女たちよりも1つ上のポジション(監督の位置)に立たせ、
作品の狙いから生まれた原稿に、自分で映像をイメージさせ、
さらに出てきたイメージを言葉で語らせ、
受講生全員が頭の中で共有した世界に、自分の声でナレーションを吹き込ませた。
つまり、作品を引っ張っていく監督兼ナレーターの練習をしたのだ。
ナレーターに絵コンテを書かせてどうなるのと思いきや
これがなかなか面白い。
出てきた絵コンテは3者3様で、その絵コンテにナレーションを当てるのだから
テンポもトーンも全く違うナレーションとなった。


(3者3様の絵コンテ)

なぜ、そのナレーションにしたのか?と聞くと、
絵コンテの世界に合わせていると言う。なるほど3者3様の世界観である。
映像作品は、多くのスタッフで成り立っている総合芸術だ。
その中で大切なのは、説得と納得である。見切り発車は脱線の元である。

彼女たちに監督になってもらい、説得と納得を体感してもらい、
今一度、総合芸術のつらさとうまみをわかってもらいたかった。

2コマ目は、かって私の作ったビデオ作品に、ナレーションを入れてもらい
みんなで評価し合う実学タイムである。
与えられた原稿を読みながら、漢字にルビを打ち、時々アクセント辞典で確認する。
形だけは、イッチョ前である。ガンバレ~。
初めてブースに入って、カフを触った子もいて、とにかく文字を目で追い、
読むので精いっぱい。ナレーションというところまでいかなかったが、
私の作った評価表に個別に記入し、他の人の評価も受け入れながら
自分の状況を確認させた。
そして最後には、本編に入っている林 順子さんのナレーションを聞かせて、
5年後の自分の姿を作文させ発表させて、本日終了とした。
予定時刻2時間に対して、3時間半も勉強会をしてしまった。
エジソンが残した、「天才は1%のひらめきと99%の汗である」
という有名な言葉があり、一般的には
「天才であったとしても、たゆまない努力が必要」と思われている。
しかしどうやら「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」
というのが真意のようだ。
言い換えると「ひらめきがない努力は無駄」ということだ。
どんなお告げがあって彼女たちはナレーターになろうとしたのかはわからない。
しかし、確かにお告げはあったのだ。だから彼女たちの努力は決して無駄ではない。
彼女たちのナレーションで幸せになれる人は必ずいる。
いまはまだ力不足で無理でも…
夢追い人とは、自身の夢を通して、
人々に「愛」を分け与えられるよう努力し続ける人のことをいう。


(夢追い人よ、ガンバレ~)

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