私が勤めた2つ目の会社「映像館」によく出入りしていた監督に
野村 惠一監督がいる。大映の出身で、三隅研次、森一生、山本薩夫らに
師事し、71年大映倒産後、フリーになった。
映像館では、ダスキンやタカラブネのPR映像を作っていたが
映像館で出会った同志の中川 幸俊君は、
野村監督を自分の良き師匠と崇拝していた。
入社してしばらくして中川君に見せられたのは
野村監督が書いた未撮の映画台本「タキオン」。
これを本気で映画化するの?と思ったが
同時にその情熱はすごい!とも思った。
その野村監督が奥さん(小笠原 恭子さん)と二人三脚で
自主映画を作ることになった。
村上 春樹原作をアレンジした「森の向こう側」(1988)である。
プロデューサーは「水のないプール」(1982)、
「スクラップストーリー」(1984)、「火まつり」(1985)と
脂の乗る清水 一夫氏を起用し、この方の人脈で
スタッフは日本映画最高のスタッフが揃った。
脚本:中村 努、撮影:安藤 昌平、照明:佐藤 幸次郎
美術:内藤 昭、録音:久保田 幸雄、編集:谷口 登司夫
こんな面体が揃った映画がかってあっただろうか。
またカメラは特撮映画でリースが残るとのことで
特別価格で借り受けた「ムービーカム」という
ガンダムのように頑丈で厳ついカメラが用意された。
「ムービーカム」は特撮用に開発された35mmフィルムカメラで、
モノクロだがビデオで瞬時に再生できる機能がついていた。
野村監督初の自主作品としては最高過ぎるスタッフと機材が揃った。
私はすでに映像館を去っていたが
中川君の紹介でノーギャラでこの映画制作に参加することになった。
当時はフリーとして上々の仕事ぶりで羽振りも良かったので
1カ月や2カ月ぐらい収入がなくても大丈夫だった。
それにこの豪華メンバーの仕事振りをナマで見られるなんて
10年映画界で飯を食っていても難しいと思われた。
ロケ地は兵庫県須磨と東京都八丈島で、
須磨には神戸の自宅からバイクで通い、八丈島には飛行機で入った。
私の須磨での最初のミッションは、ピアノとその演奏場所探しだった。
私は神戸が地元だったので、母校である神戸市立葺合高校に足を運んだ。
まあ知っている先生がいなくても、元生徒と言うヨシミで何とかなるかと…
坂の上にある母校は何も変わらず、私を当時の世界に引き込んだ。
ラッキーな事に当時担任だった二宮 尊先生(かの二宮 尊徳の末裔)が、
教頭先生になっており、面会して私の申し出を快諾してくれた。
しかし野村監督は、意気揚々と話す私の説明を聞くや否や即NGを出した。
監督のイメージではなかったのだ。私の事情など、どうでもよい。
イメージに合うかどうかなのだ。やるの~。シブイ!
私は再度母校を訪れ、断りを入れた。
「がんばれよ」と二宮教頭は送り出してくれた。
飯の段取りから、車の段取りまで、ミッションは多岐にわたったが、
最も大変だったのは白のハコバンを赤の郵便車に塗装するミッションだった。
フロントガラスにビニールを張り2日がかりで赤に塗り替えた。
にもかかわらず撮影されたシーンには車の先がチョコット写るだけだった。
また、雨と月明かりのシーンが多く、月あかりのシーンでは
照明機材で「サン」と呼ばれる巨大な照明機材を対岸の小高い場所まで
運びあげ、ケーブルを這わすのもひと苦労、戻るとカポックといわれる
発泡スチロールの板で「サン」の光を受けて、その反射光を被写体にあてる。
淡く当たる反射光はまさに月明かりだった。
しかし風が吹くとカポックは煽られ、影がゆれる。すかさず安藤カメラマンが
「多田ちゃん、なにしてるの?じぇんじぇんダメ!」と叱られる始末。
録音の久保田 幸雄さんは、岩波映画製作所出身で、ドキュメントで
腕を磨いた方だけあって、現場では必ず同録していた。
これには助監督の鶴巻さんが「参った!」を連呼。
当時の映画は基本アフレコだったが、久保田さんはすべて同録で録った。
しかたがないので本番中は物音ひとつ立てられなかったが
緊張感は最高であった。
特機の長谷川さんの降らせる雨にも最高に痺れた!
安藤さんから「キクちゃん」と何かにつけ頼られていた撮影助手の
喜久村 徳章さんは常に冷静沈着、黙々と働く姿はまさに助手の鏡だった。
その後、喜久村さんが日本映画を代表するカメラマンになったのは
言うまでもない。
夜は酒のお付き合いで、安藤カメラマンなどは当時60歳を
優に越えていたにも関わらず、浴びるように飲んでも翌日は平気な顔をして
仕事しているのには驚かされた。私は毎夜「泥の河」だった。
(「泥の河」は1982年の小栗 康平監督作品で安藤さんが撮影を担当)
撮影部も照明部、録音部、特機もみな映画を撮ることが生きがいで、
安藤カメラマンと仕事ができるというだけで痺れていた撮影助手もいた。
しかし、一人だけクールだったのは、助監督の鶴巻 日出雄さんだった。
鶴巻さんは助監督のチーフで、ゆくゆくは監督になるべく
この作品には嫌々参加し助監督をこなしているように私には見えた。
野村監督に対しては、口にこそしなかったが
「自主映画なんて遊びに付き合えるか!」
と斜に構えているようだった。事実私も自主映画に対しては批判的であり、
この作品を反面教師と見て参加していた。
「映画はひもじくてはいけない」
「興業である限りは見てもらえてナンボのもん」
と考えていたし、そもそも「エンターテイメントでないと映画ではない!」
と心底考えていたので、野村監督に心酔している中川君が
「野村さんのやりたいようにやらしてあげて」
というセリフは、全くもって理解できなかった。
そもそも何十人も従えているスタッフに対して「好きだから」だけで
ロクなギャラも支払わず、思いだけで撮っていいものなのか?
私には今もわからない。
(野村監督作品
91年「真夏の少年」の撮影現場にて、主演は江口 洋介氏)
しかし、野村監督は凄かった。
「森の向こう側」を最初で最後の作品にはせず
91年「真夏の少年」、98年「ザ・ハリウッド」と撮り続け
05年「二人日和」では独フランクフルトの映画祭で
『第5回ニッポン・コネクション』グランプリを受賞し、
06年には藤本賞奨励賞を受賞した。
野村監督は07年の「小津の秋」が遺作となるまで自主映画を撮り続けた。
(「真夏の少年」にはキネティツクの同志・牧逸郎カメラマンが参加した
ロケ地の和歌山へ陣中見舞いで記念撮影)
以下は私の独断的私見であるが
野村さんの周りに集まったスタッフを見ていると
初期の頃は映画のプロ、いわゆる映画で生計を立てている方々が集まり
中期は映画を作りたくて仕方がない方々が集まり
後期は野村さんの映画好きのダチが集まってきた。
野村さんにとってスタッフなんて誰でもよかった。
ヒットしようが、賞をもらおうが、どうでもよかった。
ただただ、野村監督は映画と一緒にいたかった。
それを一番理解していたのは奥さんの恭子さんで、
資金を工面し、少しでも話題になるようキャスティングし、
あらゆる補佐を惜しまなかった。それも賞を取るためではない。
野村監督に出来るだけ長く映画と一緒にいさせてやりたかった。
その思いだけで野村監督のそばにいつもより添い
野村監督の顔を見ては微笑んでいた。
そしてその2人を最後まで温かく見守ったのは中川 幸俊だと私は断言する。
こうして私の映画参観は終わった。
野村 惠一監督がいる。大映の出身で、三隅研次、森一生、山本薩夫らに
師事し、71年大映倒産後、フリーになった。
映像館では、ダスキンやタカラブネのPR映像を作っていたが
映像館で出会った同志の中川 幸俊君は、
野村監督を自分の良き師匠と崇拝していた。
入社してしばらくして中川君に見せられたのは
野村監督が書いた未撮の映画台本「タキオン」。
これを本気で映画化するの?と思ったが
同時にその情熱はすごい!とも思った。
その野村監督が奥さん(小笠原 恭子さん)と二人三脚で
自主映画を作ることになった。
村上 春樹原作をアレンジした「森の向こう側」(1988)である。
プロデューサーは「水のないプール」(1982)、
「スクラップストーリー」(1984)、「火まつり」(1985)と
脂の乗る清水 一夫氏を起用し、この方の人脈で
スタッフは日本映画最高のスタッフが揃った。
脚本:中村 努、撮影:安藤 昌平、照明:佐藤 幸次郎
美術:内藤 昭、録音:久保田 幸雄、編集:谷口 登司夫
こんな面体が揃った映画がかってあっただろうか。
またカメラは特撮映画でリースが残るとのことで
特別価格で借り受けた「ムービーカム」という
ガンダムのように頑丈で厳ついカメラが用意された。
「ムービーカム」は特撮用に開発された35mmフィルムカメラで、
モノクロだがビデオで瞬時に再生できる機能がついていた。
野村監督初の自主作品としては最高過ぎるスタッフと機材が揃った。
私はすでに映像館を去っていたが
中川君の紹介でノーギャラでこの映画制作に参加することになった。
当時はフリーとして上々の仕事ぶりで羽振りも良かったので
1カ月や2カ月ぐらい収入がなくても大丈夫だった。
それにこの豪華メンバーの仕事振りをナマで見られるなんて
10年映画界で飯を食っていても難しいと思われた。
ロケ地は兵庫県須磨と東京都八丈島で、
須磨には神戸の自宅からバイクで通い、八丈島には飛行機で入った。
私の須磨での最初のミッションは、ピアノとその演奏場所探しだった。
私は神戸が地元だったので、母校である神戸市立葺合高校に足を運んだ。
まあ知っている先生がいなくても、元生徒と言うヨシミで何とかなるかと…
坂の上にある母校は何も変わらず、私を当時の世界に引き込んだ。
ラッキーな事に当時担任だった二宮 尊先生(かの二宮 尊徳の末裔)が、
教頭先生になっており、面会して私の申し出を快諾してくれた。
しかし野村監督は、意気揚々と話す私の説明を聞くや否や即NGを出した。
監督のイメージではなかったのだ。私の事情など、どうでもよい。
イメージに合うかどうかなのだ。やるの~。シブイ!
私は再度母校を訪れ、断りを入れた。
「がんばれよ」と二宮教頭は送り出してくれた。
飯の段取りから、車の段取りまで、ミッションは多岐にわたったが、
最も大変だったのは白のハコバンを赤の郵便車に塗装するミッションだった。
フロントガラスにビニールを張り2日がかりで赤に塗り替えた。
にもかかわらず撮影されたシーンには車の先がチョコット写るだけだった。
また、雨と月明かりのシーンが多く、月あかりのシーンでは
照明機材で「サン」と呼ばれる巨大な照明機材を対岸の小高い場所まで
運びあげ、ケーブルを這わすのもひと苦労、戻るとカポックといわれる
発泡スチロールの板で「サン」の光を受けて、その反射光を被写体にあてる。
淡く当たる反射光はまさに月明かりだった。
しかし風が吹くとカポックは煽られ、影がゆれる。すかさず安藤カメラマンが
「多田ちゃん、なにしてるの?じぇんじぇんダメ!」と叱られる始末。
録音の久保田 幸雄さんは、岩波映画製作所出身で、ドキュメントで
腕を磨いた方だけあって、現場では必ず同録していた。
これには助監督の鶴巻さんが「参った!」を連呼。
当時の映画は基本アフレコだったが、久保田さんはすべて同録で録った。
しかたがないので本番中は物音ひとつ立てられなかったが
緊張感は最高であった。
特機の長谷川さんの降らせる雨にも最高に痺れた!
安藤さんから「キクちゃん」と何かにつけ頼られていた撮影助手の
喜久村 徳章さんは常に冷静沈着、黙々と働く姿はまさに助手の鏡だった。
その後、喜久村さんが日本映画を代表するカメラマンになったのは
言うまでもない。
夜は酒のお付き合いで、安藤カメラマンなどは当時60歳を
優に越えていたにも関わらず、浴びるように飲んでも翌日は平気な顔をして
仕事しているのには驚かされた。私は毎夜「泥の河」だった。
(「泥の河」は1982年の小栗 康平監督作品で安藤さんが撮影を担当)
撮影部も照明部、録音部、特機もみな映画を撮ることが生きがいで、
安藤カメラマンと仕事ができるというだけで痺れていた撮影助手もいた。
しかし、一人だけクールだったのは、助監督の鶴巻 日出雄さんだった。
鶴巻さんは助監督のチーフで、ゆくゆくは監督になるべく
この作品には嫌々参加し助監督をこなしているように私には見えた。
野村監督に対しては、口にこそしなかったが
「自主映画なんて遊びに付き合えるか!」
と斜に構えているようだった。事実私も自主映画に対しては批判的であり、
この作品を反面教師と見て参加していた。
「映画はひもじくてはいけない」
「興業である限りは見てもらえてナンボのもん」
と考えていたし、そもそも「エンターテイメントでないと映画ではない!」
と心底考えていたので、野村監督に心酔している中川君が
「野村さんのやりたいようにやらしてあげて」
というセリフは、全くもって理解できなかった。
そもそも何十人も従えているスタッフに対して「好きだから」だけで
ロクなギャラも支払わず、思いだけで撮っていいものなのか?
私には今もわからない。
(野村監督作品
91年「真夏の少年」の撮影現場にて、主演は江口 洋介氏)
しかし、野村監督は凄かった。
「森の向こう側」を最初で最後の作品にはせず
91年「真夏の少年」、98年「ザ・ハリウッド」と撮り続け
05年「二人日和」では独フランクフルトの映画祭で
『第5回ニッポン・コネクション』グランプリを受賞し、
06年には藤本賞奨励賞を受賞した。
野村監督は07年の「小津の秋」が遺作となるまで自主映画を撮り続けた。
(「真夏の少年」にはキネティツクの同志・牧逸郎カメラマンが参加した
ロケ地の和歌山へ陣中見舞いで記念撮影)
以下は私の独断的私見であるが
野村さんの周りに集まったスタッフを見ていると
初期の頃は映画のプロ、いわゆる映画で生計を立てている方々が集まり
中期は映画を作りたくて仕方がない方々が集まり
後期は野村さんの映画好きのダチが集まってきた。
野村さんにとってスタッフなんて誰でもよかった。
ヒットしようが、賞をもらおうが、どうでもよかった。
ただただ、野村監督は映画と一緒にいたかった。
それを一番理解していたのは奥さんの恭子さんで、
資金を工面し、少しでも話題になるようキャスティングし、
あらゆる補佐を惜しまなかった。それも賞を取るためではない。
野村監督に出来るだけ長く映画と一緒にいさせてやりたかった。
その思いだけで野村監督のそばにいつもより添い
野村監督の顔を見ては微笑んでいた。
そしてその2人を最後まで温かく見守ったのは中川 幸俊だと私は断言する。
こうして私の映画参観は終わった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます