1986年4月、私はフリー監督宣言をした頃
フィルムはビデオにその地位を完全に奪われ
「監督」は「演出」もしくは「ディレクター」と呼ばれるようになり、
「助監督」は現場進行にプラスしてお金の管理、
つまりプロデューサー補佐も兼ねるようになり
「制作さん」と呼ばれるようになった。
私はフリー監督宣言をしたものの、監督としては新人だが、
かってプロデューサーもしていたので、
「制作さん」としてはかなりイケていた。
フリー1年目は「制作さん」としてよく声がかかったが
「制作さん」をしながらも、ついた監督の不甲斐なさにいつも激昂していた。
まぁ監督として声がかからない状況に苛立っていただけなのだが…
「制作さんは、プロデューサー補でもある!」と言い張り、
けっこう作品演出に因縁をつけたので 嫌がる監督もいたが、
ベテラン監督の中には、奴に制作さんについてもらうと「楽ができる」とか、
「つぶしたる!」とか、はたまた「オモロ~」とか賛否両論の噂が広まり
おかげで依頼はかなりきた。あくまでも監督希望だから
「制作さん」の任務には1年も経つと嫌気がさした。
『断る』という暴挙に出たため、2年目には依頼はグッと減った。
それでも私を使いたいプロデューサーは「制作さん」ではなく
助監督や、現場を全面的に任せるプロデューサー補として依頼してきた。
助監督なら監督との格闘なので、「ベテラン監督や有名監督の助監督なら」と
上から目線でOKを出したし、プロデューサーなら「OKよ」と受けたりした。
私は監督に楯突いては「恐怖の制作さん」へと進化していった。
遡ること、私が22歳で安達 弘太郎氏と共同プロデュースした
「ロイヤルホテル結婚式案内」は関西初のレーザーディスク作品
(その10「始まったものは必ず終わる」を参照)で
監督は岡村 重昭氏を起用した。
その縁もあり、私がフリーになったことを聞いた岡村氏は、
その頃には、オフィスプラネットという事務所の社長として
プロデューサーをしていたので、若い私を監督として使ってくれた。
そんなある日「多田ちゃん、酒でも飲もう」と誘われて、
その席で播磨 晃監督(故人)を紹介された。
年齢は私の親父と変わらぬ歳で、キョーレツに意味不明の難しい用語を
連発するので、どう取り付いてよいのかワケワカメだった。
当時私はフリーランス集団「オフィスキネテック」に所属していたので
牧カメラマンや大渡監督に
「播磨監督に会いました。今度一緒に仕事します」と伝えると
「へ~、播磨さんと…」と、
やたらと「…」が長く「…………」と相当間を持って次の言葉を吐いた。
この「………」の間の意味をその数カ月後、私も体感することになる。
聞くところによると播磨監督は、牧カメラマンや大渡監督の出身会社
「日本映画新社」や、老舗の「岩波映画」で暴れまくった監督で、
監督としての経歴を見ると産業映画の賞の嵐である。
安達 弘太郎氏によると、播磨監督を一躍有名にしたのは、
「キューバの恋人」(制作:土本 典昭.監督:黒木 和雄)の
監督補佐として作品につき、ドカジャガあった中でも
完成させた功労が大きいと言う。この辺の事情は私には
よくわからないが「………」の中に含まれているのだろう。
岡村監督は日本映画新社時代に播磨監督の助手について以来、
可愛がられ、岡村監督も会社設立後は播磨監督に仕事を依頼して
ツーカーの仲だった。
岡村監督あらため岡村プロデューサーとご陽気な飲み会
右端が私、その左隣が岡村氏)
そんなご縁で私が播磨監督についた仕事は「京セラフィロソフィービデオ」。
京セラの創業者である稲盛 和夫氏の経営観、人間観、人生観を
主に氏とのインタビューから映像化し、
京セラに入社した若き社員の教育用として活用するという。
播磨監督は稲盛氏と会い、台本化するにあたり1つの提案をした。
『播磨監督がインタビューするのではなく、
若い京セラマンを数十人集め、彼らに稲盛氏が語りかけるのを撮影する』
というものだ。この発想は極めて正しい。
なぜなら、このビデオ制作の動機が京セラ社員が増え過ぎ
稲盛社長と話した事もない人が増えたためビデオを通じて
稲盛流経営哲学を伝播するというもの。
ならばビデオを見せるよりも
この際できるだけ将来有望な若手を集めて稲盛氏と直接話をさせて、
彼らがその伝道者になる方がはるかに効果があるというのが
播磨監督の主張だった。
実にシブい主張である。
こんなことを即興で言い張れる監督は見たことがなかった。
また演出としても播磨監督には光るものがあった。
まず助監督である私に「稲盛氏とのインタビューも別途するつもりだが
インタビュアーは多田ちゃんに任せた」と言い放った。
もちろんインタビュー途中でチャチャは入れる。
そのチャチャを入れるため私にインタビューをさせて、
油断した時を見計らって急襲する。
しかもあえて稲盛氏の癇に障るような事を平気でバンバン聞く。
これについて播磨監督は、
「人間の化けの皮を剥がすには意地悪な質問をして相手を怒らせる。
こうしないと本心がにじみ出てこない」と断言するが、
これは並大抵の根性ではできない。怒らせれば相手は言いかかってくる。
防戦ではインタビューにならない。相手が抵抗してきた時にどうきりかえすか、
これが「逆なでインタビューの奥義」だ。
また播磨監督はスタッフの使い方が実にうまく、
夜の飲み会で私がスタッフに指名したVE(ビデオエンジニア)の
中島 知晶氏がインド音楽のシタールを嗜むと聞くに及ぶや、
「今回の作品はシタールでいく。映像を見ながら即興で弾いてもらおう」
と言い出した。中島氏は大喜びであるが、私は困惑した。
「インド音楽と経営哲学が合うの??」
録音は当時大阪スタジオに所属していた
吉田 一郎氏(現ガリレオクラブ社長)がついてくれた。
シタールは北インド発祥の民族楽器の一つで、その場で感じた想いを
即興で演奏する。そこが稲盛氏のフィロソフィーとマッチするというのだ。
(シタールの録音風景)
約1時間の大作であったが、完成後の評価は上々で
播磨監督はニンマリしながら「当然だ!」と言い放った。
祝杯は、新宿にある「中足 立蔵料理研究所」に連れて行ってくれた。
中足 立蔵料理研究所は、なかあしたつぞう料理研究所と読むが、
真ん中の足(オチンチン)が勃起するほど元気が出る料理を出す店で、
生ホルモンが絶品であった。
播磨監督は私の父同様チビで、すでに50歳を越えていたが、女性には目がなく
「死ぬまでにぜひ一回セックスがしたい」とお願いしたら
たいていの女性は落ちる!と豪語しては大酒を呑む。
そんな凶暴な播磨監督は、しばらくして脳梗塞で倒れ、引退した。
2度ほど東京にお見舞いに行ったが、ついに回復せず亡くなられてしまった。
多分、私は播磨監督に最後についた助監督だと思うが、
産業映画史に残る伝説の名監督だった。
ご冥福をお祈りいたします。
フィルムはビデオにその地位を完全に奪われ
「監督」は「演出」もしくは「ディレクター」と呼ばれるようになり、
「助監督」は現場進行にプラスしてお金の管理、
つまりプロデューサー補佐も兼ねるようになり
「制作さん」と呼ばれるようになった。
私はフリー監督宣言をしたものの、監督としては新人だが、
かってプロデューサーもしていたので、
「制作さん」としてはかなりイケていた。
フリー1年目は「制作さん」としてよく声がかかったが
「制作さん」をしながらも、ついた監督の不甲斐なさにいつも激昂していた。
まぁ監督として声がかからない状況に苛立っていただけなのだが…
「制作さんは、プロデューサー補でもある!」と言い張り、
けっこう作品演出に因縁をつけたので 嫌がる監督もいたが、
ベテラン監督の中には、奴に制作さんについてもらうと「楽ができる」とか、
「つぶしたる!」とか、はたまた「オモロ~」とか賛否両論の噂が広まり
おかげで依頼はかなりきた。あくまでも監督希望だから
「制作さん」の任務には1年も経つと嫌気がさした。
『断る』という暴挙に出たため、2年目には依頼はグッと減った。
それでも私を使いたいプロデューサーは「制作さん」ではなく
助監督や、現場を全面的に任せるプロデューサー補として依頼してきた。
助監督なら監督との格闘なので、「ベテラン監督や有名監督の助監督なら」と
上から目線でOKを出したし、プロデューサーなら「OKよ」と受けたりした。
私は監督に楯突いては「恐怖の制作さん」へと進化していった。
遡ること、私が22歳で安達 弘太郎氏と共同プロデュースした
「ロイヤルホテル結婚式案内」は関西初のレーザーディスク作品
(その10「始まったものは必ず終わる」を参照)で
監督は岡村 重昭氏を起用した。
その縁もあり、私がフリーになったことを聞いた岡村氏は、
その頃には、オフィスプラネットという事務所の社長として
プロデューサーをしていたので、若い私を監督として使ってくれた。
そんなある日「多田ちゃん、酒でも飲もう」と誘われて、
その席で播磨 晃監督(故人)を紹介された。
年齢は私の親父と変わらぬ歳で、キョーレツに意味不明の難しい用語を
連発するので、どう取り付いてよいのかワケワカメだった。
当時私はフリーランス集団「オフィスキネテック」に所属していたので
牧カメラマンや大渡監督に
「播磨監督に会いました。今度一緒に仕事します」と伝えると
「へ~、播磨さんと…」と、
やたらと「…」が長く「…………」と相当間を持って次の言葉を吐いた。
この「………」の間の意味をその数カ月後、私も体感することになる。
聞くところによると播磨監督は、牧カメラマンや大渡監督の出身会社
「日本映画新社」や、老舗の「岩波映画」で暴れまくった監督で、
監督としての経歴を見ると産業映画の賞の嵐である。
安達 弘太郎氏によると、播磨監督を一躍有名にしたのは、
「キューバの恋人」(制作:土本 典昭.監督:黒木 和雄)の
監督補佐として作品につき、ドカジャガあった中でも
完成させた功労が大きいと言う。この辺の事情は私には
よくわからないが「………」の中に含まれているのだろう。
岡村監督は日本映画新社時代に播磨監督の助手について以来、
可愛がられ、岡村監督も会社設立後は播磨監督に仕事を依頼して
ツーカーの仲だった。
岡村監督あらため岡村プロデューサーとご陽気な飲み会
右端が私、その左隣が岡村氏)
そんなご縁で私が播磨監督についた仕事は「京セラフィロソフィービデオ」。
京セラの創業者である稲盛 和夫氏の経営観、人間観、人生観を
主に氏とのインタビューから映像化し、
京セラに入社した若き社員の教育用として活用するという。
播磨監督は稲盛氏と会い、台本化するにあたり1つの提案をした。
『播磨監督がインタビューするのではなく、
若い京セラマンを数十人集め、彼らに稲盛氏が語りかけるのを撮影する』
というものだ。この発想は極めて正しい。
なぜなら、このビデオ制作の動機が京セラ社員が増え過ぎ
稲盛社長と話した事もない人が増えたためビデオを通じて
稲盛流経営哲学を伝播するというもの。
ならばビデオを見せるよりも
この際できるだけ将来有望な若手を集めて稲盛氏と直接話をさせて、
彼らがその伝道者になる方がはるかに効果があるというのが
播磨監督の主張だった。
実にシブい主張である。
こんなことを即興で言い張れる監督は見たことがなかった。
また演出としても播磨監督には光るものがあった。
まず助監督である私に「稲盛氏とのインタビューも別途するつもりだが
インタビュアーは多田ちゃんに任せた」と言い放った。
もちろんインタビュー途中でチャチャは入れる。
そのチャチャを入れるため私にインタビューをさせて、
油断した時を見計らって急襲する。
しかもあえて稲盛氏の癇に障るような事を平気でバンバン聞く。
これについて播磨監督は、
「人間の化けの皮を剥がすには意地悪な質問をして相手を怒らせる。
こうしないと本心がにじみ出てこない」と断言するが、
これは並大抵の根性ではできない。怒らせれば相手は言いかかってくる。
防戦ではインタビューにならない。相手が抵抗してきた時にどうきりかえすか、
これが「逆なでインタビューの奥義」だ。
また播磨監督はスタッフの使い方が実にうまく、
夜の飲み会で私がスタッフに指名したVE(ビデオエンジニア)の
中島 知晶氏がインド音楽のシタールを嗜むと聞くに及ぶや、
「今回の作品はシタールでいく。映像を見ながら即興で弾いてもらおう」
と言い出した。中島氏は大喜びであるが、私は困惑した。
「インド音楽と経営哲学が合うの??」
録音は当時大阪スタジオに所属していた
吉田 一郎氏(現ガリレオクラブ社長)がついてくれた。
シタールは北インド発祥の民族楽器の一つで、その場で感じた想いを
即興で演奏する。そこが稲盛氏のフィロソフィーとマッチするというのだ。
(シタールの録音風景)
約1時間の大作であったが、完成後の評価は上々で
播磨監督はニンマリしながら「当然だ!」と言い放った。
祝杯は、新宿にある「中足 立蔵料理研究所」に連れて行ってくれた。
中足 立蔵料理研究所は、なかあしたつぞう料理研究所と読むが、
真ん中の足(オチンチン)が勃起するほど元気が出る料理を出す店で、
生ホルモンが絶品であった。
播磨監督は私の父同様チビで、すでに50歳を越えていたが、女性には目がなく
「死ぬまでにぜひ一回セックスがしたい」とお願いしたら
たいていの女性は落ちる!と豪語しては大酒を呑む。
そんな凶暴な播磨監督は、しばらくして脳梗塞で倒れ、引退した。
2度ほど東京にお見舞いに行ったが、ついに回復せず亡くなられてしまった。
多分、私は播磨監督に最後についた助監督だと思うが、
産業映画史に残る伝説の名監督だった。
ご冥福をお祈りいたします。
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