1985年当時のマニラ。
マカティはまだ振興が始まりかけた頃でした。
1986年に起きたエドサ革命。インターコンチネンタルホテル前の広場。
今では周りはまるで別世界のようになった。
当時はアヤラアベニューが丸見えで、名前の通りこの近辺は藪が生い茂り、金プラやジェドガーデデンのレストランには多くの外国人が、おねーちゃんを引き連れて訪れていた。
しかし、マビーニの賑わいと比べたらパサイロードおよびその近辺は真っ暗で、日本カラオケの「幸」初め数軒で、乗るなら割と安全なゴーデンタクシーを利用、マニラから訪れる外国人はビトクルーズのポリスチェックポイントをいかにすんなり抜けるかタクシー運転手へチップを弾み、割高な料金を支払い、エドサからロハス大通りを経由、マニラへ戻っていた記憶があります。
マニラへもどるのは午前1時を過ぎていることが多かったにも関わらず、エーマビーニ通りから現在のL Aカフェ前のディルピラー通りにあるポールダンスバー界隈は、不夜城と言われる東南アジアの元祖的なイロ歓楽街と言っても過言ではないほど多くの外国人で溢れていました。
この当時はちょうどジャパ行きと称されるフィリピンダンサーが日本のクラブ等で「空港」を歌い民族ダンス、中には女性バンドがオールディズを奏で日本人がはまり始めた頃です。
当時は、マラテよりマビーニが賑わっていて、元ロビンソンの裏通りアドリアティコ通りにあった3軒の置屋、現ランドバンク近辺にあったサンパキータには売春婦が200人以上いて、多くの外国人で溢れていた。もちろん、エーマビーニ(アボリーナリオ・マビーニ通り)はアジア最大の歓楽街だったと思う。
ロハス大通りにはエドサ付近までは、大きなシアタータイプの劇場のヌードシアターが軒を並べ、店内には雛壇があり、連れ出し価格と女性のタイプ別に売春婦が並び、大繁栄していた頃です。
1991年ピナツボが世界最大の大噴火をしたとし、リム市長によるマラテ浄化作戦が行われてから、不夜城の灯りが消え、賑わいが一気に減り、日本人相手もカラオケとカモフラージュした連れ出しカラオケが出没、日本人カラオケが多く開業、夜の遊び場歓楽街がパサイロード方面へ移って行きました。
恋愛ごっこが多く見られるようになったのは、ダンサーと称し、専ら接待行為を行なった1995年くらいから、日本人が日清のカップヌードルの箱を抱えて訪比、つまり追っかけ親父とジジィと言われ、マラテ界隈に宿泊、日中はハリソンプラザなどで買い物をし、手を繋いで歩いていた時代です。
当時は、アメリカが第一位、第二位日本、第三位が中近東の時代でした。
孫のようなおねーちゃんと手を繋ぎ、昼過ぎにマラテ界隈を日本人とフィリピン人のカップルがパパーと発しながら徘徊していた良き時代でした。
ただし、不夜城の全盛時代は、こう言った光景は少なく、バーファインを支払い連れ出したり、ロハス大通りから連れ出し、滞在するホテルで夫婦ごっこをする日本人が多く見受けられた頃です。
そしてタクシーに乗れば、バーティスタ通りの3軒の置屋へバスで買春客が溢れ始めてきた頃です。
しかし、買春料金は今も当時とさほど変わりはないのですが、ホテル代金はじめ滞在費用の高騰は凄まじく、日本国内のピンパブの激減の影響も受け、親父殿ジジィ殿も日増しに訪比が減り、ポン引きやコピーロレックスやバイアアグラ売りもだんだん減ってきました。コロナ禍の影響も甚大ですが、2015年頃からにわか夫婦ごっこをする日本人は中国の東莞、バンコクへ多く移り始め、マラテ界隈は韓国色が強くなり日本人が少なくなり、新人類マニラ症候群の日本人が訪比を始めたものの、コロナ禍の影響は界隈の経済に大きな影響を与えました。
不夜城と言われた当時の日本人と現在の日本人の質は、俄夫婦ごっこや恋愛ごっこは同じですが、はまり具合は、現代が気の毒なことが多く見受けられる傾向があるように思います。
おそらくこれからのマニラは、物価高はじめ円安の影響で航空運賃の安い、ベトナム、タイ方面がさらに増え続けていくのかもしれません。
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