キアポ
フィリピンの首都圏にあるマニラ市の地区で「マニラの旧市街」として知られるこの地区の最も有名なランドマークは、キアポ教会。
これは、アジアで最も神聖なブラックナザレンの像を祀る小さなバシリカで、毎年1月に歴史地区で儀式が行われ、全国および地域から何百万人もの信者が集まる。歴史地区には、ヒダルゴ通りにあるような先祖代々の家や歴史的建造物、博物館、美術館、図書館、教会やモスクなどの歴史的な礼拝所、歴史的な映画館、歴史的な公園や通りなど、数多くの遺産が点在しているが、その多くは非公式の入植者やスラム街の建設によって破壊され、いわゆる「近代化」の名の下に企業によって建てられた建物もある。多くの史跡は、第二次世界大戦中に日本とアメリカの植民地主義者によって補償や再建の支援なしに破壊され、戦後には特定の企業によっていくつかの史跡が破壊された。近年、さまざまな遺産組織、専門家、議員が、キアポを文化遺産地区として再活性化するよう推進し、失われた歴史的建造物の再建、歴史地区の本来の美観に合うように現代建築を改修するほか、地区をより安全で歩きやすく、気候に適応したものにするために木や植物を植え、道路を改修した。
地理的にはマニラ市の中心部に位置するキアポは、南はパシグ川とエステロ・デ・サンミゲル、東はサンミゲル地区、北はサンパロック地区とサンタクルス地区、レクト通り、西は サンタクルス地区とリサール通りに囲まれている。
語源
キアポの名は、近くのパシグ川にタガログ語でキヤポ(フィリピン語ではquiapo)と呼ばれる水菜(Pistia stratiotes )が豊富に生息していることに由来している。ヌエバ・エシハ州のクヤポの町も同じ植物にちなんで名付けられている。
歴史
1800年以前のマニラの地図を見ると、歴史的に貧しい漁村であったキアポは、もともと湿地帯と浅瀬のある島々の集まりであったことがわかる。1578年、フランシスコ会が到着し、近くのサンタ・アナ・デ・サパに主な宣教本部を設立し、キアポをその礼拝所(礼拝堂)の一部とした。彼らはキアポ教会を設立し、それを洗礼者聖ヨハネに捧げた。その後、1581年にイエズス会が到着した。
フランシスコ会高位聖職者ペドロ・バウティスタはキアポを独立の町にするよう請願した。この請願は最終的に1586年8月29日に総督 サンティアゴ・デ・ベラによって認められた。 1622年、アウグスティノ会の修道士たちが到着し、現在のサン・セバスティアン大聖堂の場所に聖セバスティアンを称える礼拝堂を建立した。1850年までに、当時は小さな農村であったキアポの人口は、マニラのガレオン船貿易の終了とそれに続く1830年の国の世界貿易への開放に伴う経済発展の結果として増加した。新たに裕福になったメスティーソや、スペイン軍将校を含む多くの裕福なヨーロッパ人がキアポに定住し始めた。
キアポは裕福な郊外地区となっていた。アメリカの島嶼政府および連邦時代から1970年代後半まで、キアポは周辺地区(リサール通り、サンタクルス通り、エスコルタ通り、ユニバーシティベルト)とともに、マニラの社会的エリート層の活動、ならびに貿易、ファッション、芸術、高等教育の中心地としての地位を共有していた。しかし、リサール通りに架かるマニラ ライト レール トランジット システムのLRT-1の建設により、光が遮られ、スモッグや車の排気ガスが閉じ込められて、通りは暗く陰気になり、犯罪や浮浪者が増加した。その結果、多くの老舗店がこの地区から撤退した。キアポの活気は、国の経済衰退による社会不安のため、戒厳令時代にさらに減少した。この地区の一部は、1986年のピープルパワー革命の成功において重要な位置を占めるようになった。地区内の空き地は、キアポ教会の訪問者を受け入れるための仮設市場で埋め尽くされていた。
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