デイビットのブラジルいろいろ日記

デイビットの思いつくままなんでもかきます

長崎、小谷の保険金詐欺殺害事件

2010-10-14 17:35:19 | Weblog
この事件は私がアマゾンにいるころの事件であたしに住む農場の近くに逃げてきて

警察と銃撃戦のすえピストル自殺を図ってまくぎれした事件でよく覚えてます。

のちに浜田みつひこ主演で『逃亡の果てに』という題名で映画になりました。

当時ブラジル人が「日本の警察はすごい、ブラジルまで追いかけてくる」と言って関心してました。

昭和54年(1979年)5月 2日、愛知県豊川市の愛知宝運輸社長・長崎正恭(当時40歳)と同社専務・小谷良樹(当時35歳)は、保険金目当てに社員や知人を殺害。保険金を騙し取っ た疑いで警察が内偵しているのを知り、日本から台湾経由でブラジルのサンパウロ市へ逃走潜伏していたが、地元警察隊に発見され、銃撃戦の末、ピストルで自 殺した。
長崎は26歳の時、小さな運送会社を設立。その後、経営不振の運送会社を次々と買収し、昭和44年頃には従業員30人を抱える運輸会社に発展させた。ところが、昭和48年に起きた第一次石油ショックの影響で、会社はたちまち経営不振に陥り、財政は火の車となった。

そこで、長崎は交通事故の保障という名目で各従業員に5千万円から1億円の生命保険金を掛けた。また、資金繰りが苦しい零細企業者や個人に融資する際、担 保として生命保険に加入させていた。勿論、受取人は長崎本人で、あとは会社の腹心、兄弟や知り合いの暴力団に保険加入者の殺害を委託していけば会社経営は 順調に行くと計画した。

最初の犠牲者は、融資先の食品会社経営のAさん(当時43歳)で、昭和52年10月4日、酔っ払い運転による事故死に見せかけて1億3千万円の保険金を騙し取った。
翌53年7月30日、長崎が経営する愛知宝運輸・運転助手のBさん(当時18歳)を海水浴場で溺死させ、1億円の保険金を騙し取った。

計画がうまくいったことで、長崎は犯行をエスカレートさせた。知人で共犯者のスナック経営・C子(当時55歳)の殺害である。長崎はC子に1億8千万円の保険金を掛けて、スナックを放火。スナックは全焼し、焼け跡からC子の焼死体が発見された。
さすがに、この段階になって保険会社が長崎に対して不審を抱き、警察と連携を取った。警察は長崎に対する内偵を開始したが、保険金目当ての連続殺人につながる物証、裏付けは取れなかった。

捜査は意外なところから急展開を見せた。昭和53年8月、警視庁は株券偽造の詐欺容疑でD(当時67歳)を逮捕した。この取調べ中、Dは「自分は保険金を 掛けられ2回も殺されそうになったことがある」と供述した。警視庁は愛知県警に本件問い合わせをしたところ、長崎が事件に絡んでいることが判明した。


そこで、警視 庁と愛知県警は合同捜査を開始した。その結果、翌54年4月に長崎から殺人を委託され、殺害を実行した暴力団関係者や知人ら8人を逮捕した。だが、主犯の 長崎と小谷は、逮捕される直前に知人で台湾人のFを頼りに台湾へ逃亡。しばらくF宅に潜伏していたが、国際手配されていることを知った長崎は、Fに勧めら れブラジルへ逃亡した。
長崎らは、パラグアイ経由でブラジルのサンパウロ市に着いた。その後、郊外に潜伏していたが、地元住民の通報でサンパウロ州政府警察隊が潜伏先の隠れ家を急襲。激しい銃撃戦の末、観念した長崎らはピストルで自殺し事件は終幕した。

この事件について、ウニベルツールが関係したエピソードがある。サンパウロ市のガルボン・ブエノ街にあった宮本旅館に宿泊していたらしい、とインターポー ルを通じて2人の行方を捜査していた高倉マリオ警部は、追跡調査を実行。そのうちに、2人がパラグアイで偽イデンチダーデと偽造運転免許証を買い、さらに GM社のキャラバン車を購入、ブラジルの奥地へ逃亡したとし、警察の調べでトカンチンス州のコンセイソン・デ・アラグアイアという田舎町に潜んでいること が判明した。

この情報を聞いたサンパウロ新聞社の水本光任社長は、外国人警察署署長との間で特別取材権を交渉し、刑事7人による犯人逮 捕に社会部デスクの野口記者の同行許可を取った。7人の刑事は高倉警部と河合ロベルト刑事の日系人2人とブラジル人の屈強な刑事たちだった。ウニベルツー ルが12人乗り双発のバンデイランテ機をチャーターしてコンゴニアス空港から飛んだのだった。

結果は逮捕に至らず、前述のような事件結 果に終わった。後日、河合刑事の話を聞くと、誰もが犯人2人を説得できると信じていたようで、投降の声に犯人2人が発砲してきたため、やむを得ず催涙弾を 撃って防御しつつ、河合刑事がドアをやぶって踏み込んだ時、左足首をひねって捻挫してしまい、あとに続いた屈強な刑事たちが踏み込んだ時に、2人は観念し たようだったという。しかし、この催涙弾で涙はでる、衣服に臭いが染み付くはで大変だったそうだ。2人の遺体はベレンへ移送され検死されたのだった。
しばらくは、サンパウロ新聞の紙面はこのニュースで埋まっていた。



コメント (4)
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