香港にやってきてもうすぐ、29年になるのね。でも、そのうち2年は日本に帰ってしまったので、27年なんやけどね。香港には1988年に初めて旅行で来た。友達とどっか旅行行きたいねと話してて、国内にする予定がたまたまどっかで香港ツアーのチラシを友達がもらってきた。値段がすごく安くて国内よりええやん~、という事で急遽香港に行くことにした。香港ってなんのイメージもなく、ただブルース・リーかジャッキーか?あと、うるさい広東語のイメージ。5月の末やったと思う、カイタック空港に着いた時、空気がねっとりしてて、独特の匂いが鼻を突いたのを覚えてる。泊まったホテルはCWBのパークレーンホテル。そこが香港のどこに位置しているのかもわかってなかった。安いツアーにありがちなおみやげ物屋さんを連れまわされて、1日の自由行動の日はガイドさんが個人的に香港を案内してくれはった。これが、私が香港に住むことになるきっかけでもあるのです。(笑 活気あるエネルギッシュな香港と、異国情緒がある観光地と可愛いガイドに魅せらて私たちは、帰国の日、帰るのが嫌でイミグレで大泣きするんですわ。(笑 泣きながらパスポート出したら、そこで、イミグレのオフィサーになぜかナンパされる。住所と電話番号を書いた紙を渡されたのです。しばらく、文通してたわ、そういえば。(笑 帰国してからは、次いつ香港に行くか友達と盛り上がって、その後香港に住み始めるまで年3回旅行で来てました。その間、広東語も習い始めたんだわ。一発で恋に落ちたんよね、香港に。ほんまに好きで好きで仕方なかったな。通い詰めるうちにガイドさんとかその友達と仲良くなって、私達の香港に対する情熱にほだされて仕事を紹介してくれたのよ。キンバリーホテル内の日本料理屋花水木の受付で、お家と食事つきでお給料は9,500ドルやったかなあ?もう、とにかく香港にいけるなら~と飛びついた。仕事はしんどかったよ。拘束時間が長いから。。。まだ、お店から家が近いので休憩に帰れたのはよかったなあ。まあ、その家も泥棒に入られたり、色々あったけど。(笑 基本、お金は使わへんかったので貯金は出来たけど。契約は1年やったので終了間際はお客様相手に就職活動して、日系のステンレスの会社に雇ってもらった。そのころは香港人の彼がいて、広東語もメキメキ上達してましたの。だって、相手は日本語話せへんし、私が覚えるしかないしというか広東語話せるようになりたかったしね。ステンレスの会社は2年半くらい働いて、次は不動産屋に就職した。ここには97年に帰国するまで働きました。この時にはもう広東語はネイティブくらい話せたのよ。家のオーナーさんとかも私が日本人やって言うてるのに、両親はどっちか香港人か?祖父母が香港人か?って言われるくらい。あのままの状態が続けばよかったんやけどなあ。最近は使わへんからむっちゃへたくそ、惜しい事した。そして97年の返還後、色々あって彼とも別れ日本に本帰国したんです。2年住んだけど、やっぱり香港が恋しくてねえ。また、就職活動をして知り合いの紹介で住友海上に就職したのでした。そして、1999年12月の末に2回目の香港への引っ越し。1回目の香港がどロカールな生活やったとしたら、2回目はどちらかと言えばローカルとは一線を引いた生活になったねえ。戻ってきて出来た彼がイギリス人やったし、彼が住んでるDBに引っ越してからは広東語を話す機会も減ったしなあ。英語も97年の帰国前にちょっと話す機会が増えて、そこからは勉強と実践。まあ、彼氏の国の言葉は付き合うようになったら上達するというものや。今は、彼なんていない生活なのでなんかどっちつかずな感じ~。でも、生活には困らへんから良いのです。(笑 香港に来てから山あり谷ありの人生で、香港のエネルギーに負けそうになったり、元気づけられたり。ほんまに、香港は大好き。でも、来年はここを去るのね。さみしすぎるけど、もう仕方ない。永久居民やから、また戻ってきたりするかもしれへんけど。(笑 最後の年にこんな状況で香港内もウロチョロできず、なんか残念ですねえ。あと、半年ちょっともっと香港をエンジョイしなければ!