30.その上には十九(火獄の番人の天使の数)。
31.そしてわれらは、天使たち以外を獄火の支配者(門番)たちとはなさず、われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした。啓典を授けられた者たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が確信し、信仰した者たちが信仰を増やし、啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために、また、心に病のある者(偽信者)たちと不信仰者たちが、「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」と言うために。このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う。そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。
「その上には十九(火獄の番人の天使の数)」地獄に関する話が続きます。つまり天使たちの中の19の天使について。
不信仰者たちはこういった来世に関する事実を嘲笑しました。アブージャハルが19の天使について言いました:(クライシュに向かって)お前たち10人で天使一人さえもやっつけられないのか。代わって、啓典の民は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を指します。彼らのうちのある人たちが預言者(祝福と平安あれ)に地獄の門番について質問した際、アッラーがその数について知らせ給いました。
そしてアッラーは不可視部のこの側面を露わにすることで一つの英知を次の御言葉で解明し給いました:
「そしてわれらは、天使たち以外を獄火の支配者(門番)たちとはなさず、われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした。啓典を授けられた者たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が確信し、信仰した者たちが信仰を増やし、啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために、また、心に病のある者(偽信者)たちと不信仰者たちが、「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」と言うために。このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う。そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。」
アッラーは地獄の諸事を任された者、その中にいる不信仰者たち、罪人たちを罰する者を天使のほかに定め給いませんでした。なぜなら天使はアッラーに背くことから最も遠ざかった存在で、また人間とジンよりも力強く、アッラーに命じられた偉大な事柄を実行する能力を持っているからです。「われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした」つまりアッラーが彼らの数を19とし給うたのは、単に不信仰な者たちを困らせ、迷わせるためである、ということです。なお彼らはこの数を嘲笑し、天使たちに敵対して勝ってやろうとの態度を見せました。また「試練に他ならないもの」は:罰に他ならない、とも言われます。
「啓典を授けられた者たちが確信し」つまりユダヤ教徒とキリスト教徒が、自分らの啓典に書かれていることがクルアーンの中にあるものと一致していることに基づいてムハンマドの預言者性を確信するため、です。「信仰した者たちが信仰を増やし」つまり、信仰者たちがムハンマドの預言者性によって信仰の上に信仰を増やす。啓典の民の出であっても、アラブの出であっても関係はない。「啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために」律法の民と福音の民とムハンマドの共同体のアッラーを信仰する者たちが、クルアーンがアッラーの書であることを疑わないために。既述の言葉を強調します。「また、心に病のある者たち」偽信者、信仰の弱いアラブ人です。「不信仰者たち」ムハンマドの預言者性を否定する者たち。「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」私たちを脅すためにこの天使の少ない数でアッラーは何を望み給うのか。人々の間で親しまれているたとえ話を不思議がるということは、それ自体に対する拒絶を指します。
「このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う」このように:不信仰者たちによる嘘呼ばわりと信仰者たちの信仰を指します。代わって、アッラーが人々を迷わせたり違う人々を導くということは、そのように強制されること、つまり善の道と悪の道をどちらかを取ることにおいて無理強いされることを意味しません。断じてそうではありません。“強制”はアッラーの公正さに矛盾し、人間には意志と選択権があるとの明言を含んだクルアーンに馴染みません。クルアーンには次のようにあります「そして言え、「おまえの主からの真理である」。そして望む者には信じさせ、望む者には信仰を拒否させよ。」(洞窟章29節)「善行をなした者、それは己自身のためである。そして、悪をなした者、それは己に仇している。そしておまえの主はしもべたちに対して不当不正な御方ではあらせられない。」(解説された章46節)、「まことにアッラーは、民が己の事柄を変えるまで、彼らの事柄を変え給うことはない。」(雷章11節)
アッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う、の意味は、アッラーが人間に二つの道を解明し給うているということです:善の道と悪の道。人間には自分に合った、自分の意志が欲するどちらかを選ぶ権利があります。そのため人間は選択に関する清算を受けます。なぜなら悪の道を辿る者は、十分な理解力、意志、自由、選択でその道を辿るためです。ここに報復と罰が生まれるのです。同様に、対するものとして、導きの道を辿る者は、完全に自分の意志と、信仰と確信の結果に基づいてその道を辿ります。
アッラーは私たちに導きの道を露わにしてくださり、また私たちが辿れば導かれ幸福になる道を限定してくださいました。迷い、苦しむことになる迷いの道も同じくアッラーは解明してくださいました。アッラーは、天命、不可視界の秘密について知ることを私たちに課し給わなかったのは、それらがアッラーのみに属するものであり、理解力はそれらの本性を会得出来ないためです。
前述の節の続きを見ましょう:「そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。」地獄の看守の数が19であっても決してアッラーの軍勢が少ないことを指しているわけでないことの解明がここにあります。アッラーの軍勢については、彼のみが御存知です。しかしこの少数で命ぜられたことをこなすのに十分です。「そしてそれは」猛火を指します。「人間への訓戒にほかならない」アッラーに背くことに注意するために人間に与えられた訓戒であるという意味です。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP124~127)
31.そしてわれらは、天使たち以外を獄火の支配者(門番)たちとはなさず、われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした。啓典を授けられた者たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が確信し、信仰した者たちが信仰を増やし、啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために、また、心に病のある者(偽信者)たちと不信仰者たちが、「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」と言うために。このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う。そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。
「その上には十九(火獄の番人の天使の数)」地獄に関する話が続きます。つまり天使たちの中の19の天使について。
不信仰者たちはこういった来世に関する事実を嘲笑しました。アブージャハルが19の天使について言いました:(クライシュに向かって)お前たち10人で天使一人さえもやっつけられないのか。代わって、啓典の民は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を指します。彼らのうちのある人たちが預言者(祝福と平安あれ)に地獄の門番について質問した際、アッラーがその数について知らせ給いました。
そしてアッラーは不可視部のこの側面を露わにすることで一つの英知を次の御言葉で解明し給いました:
「そしてわれらは、天使たち以外を獄火の支配者(門番)たちとはなさず、われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした。啓典を授けられた者たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が確信し、信仰した者たちが信仰を増やし、啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために、また、心に病のある者(偽信者)たちと不信仰者たちが、「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」と言うために。このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う。そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。」
アッラーは地獄の諸事を任された者、その中にいる不信仰者たち、罪人たちを罰する者を天使のほかに定め給いませんでした。なぜなら天使はアッラーに背くことから最も遠ざかった存在で、また人間とジンよりも力強く、アッラーに命じられた偉大な事柄を実行する能力を持っているからです。「われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした」つまりアッラーが彼らの数を19とし給うたのは、単に不信仰な者たちを困らせ、迷わせるためである、ということです。なお彼らはこの数を嘲笑し、天使たちに敵対して勝ってやろうとの態度を見せました。また「試練に他ならないもの」は:罰に他ならない、とも言われます。
「啓典を授けられた者たちが確信し」つまりユダヤ教徒とキリスト教徒が、自分らの啓典に書かれていることがクルアーンの中にあるものと一致していることに基づいてムハンマドの預言者性を確信するため、です。「信仰した者たちが信仰を増やし」つまり、信仰者たちがムハンマドの預言者性によって信仰の上に信仰を増やす。啓典の民の出であっても、アラブの出であっても関係はない。「啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために」律法の民と福音の民とムハンマドの共同体のアッラーを信仰する者たちが、クルアーンがアッラーの書であることを疑わないために。既述の言葉を強調します。「また、心に病のある者たち」偽信者、信仰の弱いアラブ人です。「不信仰者たち」ムハンマドの預言者性を否定する者たち。「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」私たちを脅すためにこの天使の少ない数でアッラーは何を望み給うのか。人々の間で親しまれているたとえ話を不思議がるということは、それ自体に対する拒絶を指します。
「このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う」このように:不信仰者たちによる嘘呼ばわりと信仰者たちの信仰を指します。代わって、アッラーが人々を迷わせたり違う人々を導くということは、そのように強制されること、つまり善の道と悪の道をどちらかを取ることにおいて無理強いされることを意味しません。断じてそうではありません。“強制”はアッラーの公正さに矛盾し、人間には意志と選択権があるとの明言を含んだクルアーンに馴染みません。クルアーンには次のようにあります「そして言え、「おまえの主からの真理である」。そして望む者には信じさせ、望む者には信仰を拒否させよ。」(洞窟章29節)「善行をなした者、それは己自身のためである。そして、悪をなした者、それは己に仇している。そしておまえの主はしもべたちに対して不当不正な御方ではあらせられない。」(解説された章46節)、「まことにアッラーは、民が己の事柄を変えるまで、彼らの事柄を変え給うことはない。」(雷章11節)
アッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う、の意味は、アッラーが人間に二つの道を解明し給うているということです:善の道と悪の道。人間には自分に合った、自分の意志が欲するどちらかを選ぶ権利があります。そのため人間は選択に関する清算を受けます。なぜなら悪の道を辿る者は、十分な理解力、意志、自由、選択でその道を辿るためです。ここに報復と罰が生まれるのです。同様に、対するものとして、導きの道を辿る者は、完全に自分の意志と、信仰と確信の結果に基づいてその道を辿ります。
アッラーは私たちに導きの道を露わにしてくださり、また私たちが辿れば導かれ幸福になる道を限定してくださいました。迷い、苦しむことになる迷いの道も同じくアッラーは解明してくださいました。アッラーは、天命、不可視界の秘密について知ることを私たちに課し給わなかったのは、それらがアッラーのみに属するものであり、理解力はそれらの本性を会得出来ないためです。
前述の節の続きを見ましょう:「そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。」地獄の看守の数が19であっても決してアッラーの軍勢が少ないことを指しているわけでないことの解明がここにあります。アッラーの軍勢については、彼のみが御存知です。しかしこの少数で命ぜられたことをこなすのに十分です。「そしてそれは」猛火を指します。「人間への訓戒にほかならない」アッラーに背くことに注意するために人間に与えられた訓戒であるという意味です。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP124~127)