第二の罪は、放置されることのない、しもべの権利にかかわる罪です。あなたは次のアッラーの御言葉を聞いて驚きませんか?
「彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う。」(ヌーフ章4節)
「ミン」は、部分的なことを意味します。彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う、という意味です。代わって残りの罪は、ないがしろにされた権利が元の持ち主に返還されるか、不当な目にあった者が容赦するまでアッラーは赦し給いません。そのためムスリムたちは危険な思い込みに陥ってしまっています。ある者は思うままに罪を犯し、ハッジに行き、ハッジでアッラーがすべての罪をゆるしてくださると思い込みますが、誰がそんなことを言ったのでしょうか?ハッジやウムラ、断食斎戒や任意の礼拝、タウバやヒジュラは人間のアッラーに対する罪から母親から生まれたばかりの無垢な状態に戻るために設けられた機会で、罪をゆるしてもらえるための機会なのです。しかしあなたが他人に対して犯した罪は、(それが盗みであるなら)盗まれたものを持ち主に返したり、(暴力や中傷であれば)被害者の容赦が必要になってきます。そのためアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は亡くなった尊い教友のために祈りを捧げる前に、「彼に負債はあったのか」と確認されていました。
サラマ・イブン・アル=アウカア(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
「われわれが御使い(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに座っていたところに葬儀の集まりが現れました。彼らは彼に「葬儀の礼拝をなさっては」と言ったところ、彼は「彼(死んだ人)には負債はあるか?」と言われました。彼らが「いいえ」と答えると、「何か残したか?」と言われました。彼らが「いいえ}と答えてやっと彼は葬儀の礼拝をされました。次に違う葬儀の集まりが現れると、「アッラーの使徒様、(死んだ人に)礼拝してください」と言いました。彼は「彼に負債はあるのか?」と尋ねられて、彼らは「はい」と答えました。「では何か残していったか?」と尋ねられると、「3ディーナールです。」と答えました。彼が礼拝を捧げると、第三の集団が現れました。「礼拝を捧げてください」と言われて、「彼は何かを残していったか?」と尋ねると人々は「いいえ」と答え、「負債はあるか?」と尋ねると「3ディーナールです」と答えました。彼は「おまえたちの友のために礼拝を行いなさい』と言われました。アブークターダは「アッラーの使徒様、あなたが彼に礼拝を捧げてください。私が彼の負債を返済しますから」と言うと、彼は礼拝を捧げました。」(アル=ブハーリー)
殉教者であっても、借金は赦されなかったことを指していますね。つまり、他人の権利が絡んでいるもの、ということです。
ムスリムの多くが陥ってしまっているこの思い込み、つまりハッジに行けば生まれたての子のように無垢になれると思っていること。これは非常に危険です。しもべが持つ権利は、減らされることなく完璧に全うされなければいけないのです。これこそが放置されない罪、です。
物質的権利だけでなく、精神的権利も含まれます。
信仰者は、信仰者の悪口を言うと、言われた者が言った者から善行を奪うことを確信します。そのためもあって、人々が最も必要としていることをお話します:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
「破産者とはどういう人のことを言うかおまえたちは知っているか?」彼らが「われわれのうちの破産者とは、ディルハムも物品も持たない者のことをいいます、アッラーの使徒様。」アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:「私の共同体の破産者とは、審判の日に自らの礼拝と斎戒と喜捨を持参してやって来るが、誰々を罵倒した、誰々を中傷した、誰々の金を取った、誰々の血を流させた、誰々を打ったと言う人がいる。ある者は座り込んで、彼の善行から報復をなし、またある者も彼の善行から成す。報復が済む前に善行が無くなってしまうと、(被害者の)罪を代わりに取ることになる。そして火に投げ込まれる。」(アッ=ティルミズィー出典)
アブーフライラによるとある男が言いました
「アッラーの使徒様、ある女性が礼拝と斎戒とサダカをたくさん行うけれども、その舌で近所の人を傷つけているそうです。」彼は言われた:「彼女は火の中にいる。」男は言った:「アッラーの使徒様、ある女性が斎戒とサダカと礼拝をあまりせず、サダカしてもわずかですが、その舌で近所の人を傷つけません。」彼は言われた:「彼女は楽園に居る。」(アハマド出典)
イブン・ウマルによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「ある女は猫のために火獄に入った。彼女は猫を縛り、餌を与えず、虫が食べられるように放すこともなかった。」(アル=ブハーリーとムスリム出典)
しもべの権利とは重大なものであることを強調します。それは必ず遂行されなければならないものです。
アッラーは仰せです:
「それでおまえの主にかけて、必ずわれらは彼らをそっくり尋問する。(92)彼らがなしていたことについて。(93)」(アル=ヒジュル章92~93節)
イムラーン・イブン・ヒッターンは言った:「私はアーイシャのことろに入り、彼女から知識を得ていたのですが、裁判官の話になって彼女は言いました:「私はアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞きました:
「一粒のナツメヤシの実について二者の裁定などしなければ良かったのにと望む時間が最後の審判の日に公正な裁判官に来ることは確実だ。」(アハマド出典)
ですから、私たちは自分のたちのものではないものを取ることに注意しなければなりません。
これこそが、完遂され、そして悔悟が伴われるか被害者が赦すまで放置されない罪です。
これらの罪は完遂されるか容赦されることでしか消えないということで、二者が関係を元通りにした場合、アッラーは介入し給わないということです。私はあなたにある金額のお金を借りているがあなたは帳消しにしてくれた。これで話は終わりになります。しかしアッラーの館に巡礼に行って戻ってきたことで私の罪がすべて赦されたと思い込むことは非常に愚かです。あなたとその他のしもべの間で起きた罪は権利が返却されるか容赦されることでしか赦されません。これが放置されない罪です。
崇拝行為には儀式的なものと社交的なものがあります。私は礼拝、斎戒、ハッジなどの儀式的崇拝行為はそのための社交的崇拝行為が正しく行われないと(アッラーに)受け入れられないと強く信じています。
社交的崇拝行為が正しくないと、儀式的崇拝行為は受け入れられません。例えてみると、社交的崇拝行為は学年でその中には出席や教師に集中すること、宿題の提出、試験です。あなたがもしカリキュラムに出席してこなかったら、儀式的崇拝行為である3時間の試験時間に一体どのような価値があると思いますか?儀式的崇拝行為は、社交的崇拝行為の実を得る機会なのです。そのため社交的崇拝行為をなさなかった者の崇拝行為は受け入れられません。
宗教とは、まるで道徳的価値観の集合体のようです。道徳的に向上するとは信仰心が向上するということです。
私は社交的崇拝行為を促します。これこそは諸問題の問題であり、ムスリムが突っかかってしまった最大の隆起物なのです。
礼拝:
「まことに、礼拝は醜行と忌み事を禁じる。」(蜘蛛章45節)
斎戒:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「虚言や嘘の行いを止めない者。アッラーに彼の食事と飲み物を放置は不要である。」(アル=ブハーリー)
これらの儀式的崇拝行為は社交的崇拝行為が正しくならないとアッラーの許で受け入れられません。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は道徳を次の3点で表してくださったことが分かります。ジャアファル曰く:「われわれは彼(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))の家系と正直さ、誠実さ、貞節さを知っています。彼があなたに語れば彼は正直で、社交すれば彼は信頼おける人。性欲がかき立てられても彼は貞操を守る人です。」
以上で、赦されない罪と放置されない罪の解説が終わります。残るのは赦される罪です。つまりあなたがアッラーに対して犯した罪です。これについては次回、詳しく解説します。
http://www.nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7185&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895
「彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う。」(ヌーフ章4節)
「ミン」は、部分的なことを意味します。彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う、という意味です。代わって残りの罪は、ないがしろにされた権利が元の持ち主に返還されるか、不当な目にあった者が容赦するまでアッラーは赦し給いません。そのためムスリムたちは危険な思い込みに陥ってしまっています。ある者は思うままに罪を犯し、ハッジに行き、ハッジでアッラーがすべての罪をゆるしてくださると思い込みますが、誰がそんなことを言ったのでしょうか?ハッジやウムラ、断食斎戒や任意の礼拝、タウバやヒジュラは人間のアッラーに対する罪から母親から生まれたばかりの無垢な状態に戻るために設けられた機会で、罪をゆるしてもらえるための機会なのです。しかしあなたが他人に対して犯した罪は、(それが盗みであるなら)盗まれたものを持ち主に返したり、(暴力や中傷であれば)被害者の容赦が必要になってきます。そのためアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は亡くなった尊い教友のために祈りを捧げる前に、「彼に負債はあったのか」と確認されていました。
サラマ・イブン・アル=アウカア(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
「われわれが御使い(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに座っていたところに葬儀の集まりが現れました。彼らは彼に「葬儀の礼拝をなさっては」と言ったところ、彼は「彼(死んだ人)には負債はあるか?」と言われました。彼らが「いいえ」と答えると、「何か残したか?」と言われました。彼らが「いいえ}と答えてやっと彼は葬儀の礼拝をされました。次に違う葬儀の集まりが現れると、「アッラーの使徒様、(死んだ人に)礼拝してください」と言いました。彼は「彼に負債はあるのか?」と尋ねられて、彼らは「はい」と答えました。「では何か残していったか?」と尋ねられると、「3ディーナールです。」と答えました。彼が礼拝を捧げると、第三の集団が現れました。「礼拝を捧げてください」と言われて、「彼は何かを残していったか?」と尋ねると人々は「いいえ」と答え、「負債はあるか?」と尋ねると「3ディーナールです」と答えました。彼は「おまえたちの友のために礼拝を行いなさい』と言われました。アブークターダは「アッラーの使徒様、あなたが彼に礼拝を捧げてください。私が彼の負債を返済しますから」と言うと、彼は礼拝を捧げました。」(アル=ブハーリー)
殉教者であっても、借金は赦されなかったことを指していますね。つまり、他人の権利が絡んでいるもの、ということです。
ムスリムの多くが陥ってしまっているこの思い込み、つまりハッジに行けば生まれたての子のように無垢になれると思っていること。これは非常に危険です。しもべが持つ権利は、減らされることなく完璧に全うされなければいけないのです。これこそが放置されない罪、です。
物質的権利だけでなく、精神的権利も含まれます。
信仰者は、信仰者の悪口を言うと、言われた者が言った者から善行を奪うことを確信します。そのためもあって、人々が最も必要としていることをお話します:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
「破産者とはどういう人のことを言うかおまえたちは知っているか?」彼らが「われわれのうちの破産者とは、ディルハムも物品も持たない者のことをいいます、アッラーの使徒様。」アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:「私の共同体の破産者とは、審判の日に自らの礼拝と斎戒と喜捨を持参してやって来るが、誰々を罵倒した、誰々を中傷した、誰々の金を取った、誰々の血を流させた、誰々を打ったと言う人がいる。ある者は座り込んで、彼の善行から報復をなし、またある者も彼の善行から成す。報復が済む前に善行が無くなってしまうと、(被害者の)罪を代わりに取ることになる。そして火に投げ込まれる。」(アッ=ティルミズィー出典)
アブーフライラによるとある男が言いました
「アッラーの使徒様、ある女性が礼拝と斎戒とサダカをたくさん行うけれども、その舌で近所の人を傷つけているそうです。」彼は言われた:「彼女は火の中にいる。」男は言った:「アッラーの使徒様、ある女性が斎戒とサダカと礼拝をあまりせず、サダカしてもわずかですが、その舌で近所の人を傷つけません。」彼は言われた:「彼女は楽園に居る。」(アハマド出典)
イブン・ウマルによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「ある女は猫のために火獄に入った。彼女は猫を縛り、餌を与えず、虫が食べられるように放すこともなかった。」(アル=ブハーリーとムスリム出典)
しもべの権利とは重大なものであることを強調します。それは必ず遂行されなければならないものです。
アッラーは仰せです:
「それでおまえの主にかけて、必ずわれらは彼らをそっくり尋問する。(92)彼らがなしていたことについて。(93)」(アル=ヒジュル章92~93節)
イムラーン・イブン・ヒッターンは言った:「私はアーイシャのことろに入り、彼女から知識を得ていたのですが、裁判官の話になって彼女は言いました:「私はアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞きました:
「一粒のナツメヤシの実について二者の裁定などしなければ良かったのにと望む時間が最後の審判の日に公正な裁判官に来ることは確実だ。」(アハマド出典)
ですから、私たちは自分のたちのものではないものを取ることに注意しなければなりません。
これこそが、完遂され、そして悔悟が伴われるか被害者が赦すまで放置されない罪です。
これらの罪は完遂されるか容赦されることでしか消えないということで、二者が関係を元通りにした場合、アッラーは介入し給わないということです。私はあなたにある金額のお金を借りているがあなたは帳消しにしてくれた。これで話は終わりになります。しかしアッラーの館に巡礼に行って戻ってきたことで私の罪がすべて赦されたと思い込むことは非常に愚かです。あなたとその他のしもべの間で起きた罪は権利が返却されるか容赦されることでしか赦されません。これが放置されない罪です。
崇拝行為には儀式的なものと社交的なものがあります。私は礼拝、斎戒、ハッジなどの儀式的崇拝行為はそのための社交的崇拝行為が正しく行われないと(アッラーに)受け入れられないと強く信じています。
社交的崇拝行為が正しくないと、儀式的崇拝行為は受け入れられません。例えてみると、社交的崇拝行為は学年でその中には出席や教師に集中すること、宿題の提出、試験です。あなたがもしカリキュラムに出席してこなかったら、儀式的崇拝行為である3時間の試験時間に一体どのような価値があると思いますか?儀式的崇拝行為は、社交的崇拝行為の実を得る機会なのです。そのため社交的崇拝行為をなさなかった者の崇拝行為は受け入れられません。
宗教とは、まるで道徳的価値観の集合体のようです。道徳的に向上するとは信仰心が向上するということです。
私は社交的崇拝行為を促します。これこそは諸問題の問題であり、ムスリムが突っかかってしまった最大の隆起物なのです。
礼拝:
「まことに、礼拝は醜行と忌み事を禁じる。」(蜘蛛章45節)
斎戒:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「虚言や嘘の行いを止めない者。アッラーに彼の食事と飲み物を放置は不要である。」(アル=ブハーリー)
これらの儀式的崇拝行為は社交的崇拝行為が正しくならないとアッラーの許で受け入れられません。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は道徳を次の3点で表してくださったことが分かります。ジャアファル曰く:「われわれは彼(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))の家系と正直さ、誠実さ、貞節さを知っています。彼があなたに語れば彼は正直で、社交すれば彼は信頼おける人。性欲がかき立てられても彼は貞操を守る人です。」
以上で、赦されない罪と放置されない罪の解説が終わります。残るのは赦される罪です。つまりあなたがアッラーに対して犯した罪です。これについては次回、詳しく解説します。
http://www.nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7185&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895