アッラーは仰せです:
【本当にアッラーの御許で,(1年の)月数は,12ヶ月である。アッラーが天と地を創造された日(以来の),かれの書巻のなか(の定め)である.その中4(ヶ月)が聖(月)である。それが正しい教えである。だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。】(悔悟章36節)
「不義をしてはならない=自我を損なう」:自我を許された方法以外で使用することを指します。アッラーは人間とジンを彼に仕えさせるためだけに創造し給いました(【ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。】(51/56))が、自我に崇拝行為をさせずに悪行をさせること、これが聖句で言われる「自我を損なう」行為です。またこの行為は常に禁じられますが、聖月におけるその禁止が強調されることで、信仰者はその期間、更にアッラーに向き合おうとしなさい、お近づき行為に励みなさい、との意味があります。
人間は生きている間、アッラーに仕えているか、その逆です。アッラーが私たちに罪を禁じ給う啓示は、私たちが常にお仕えしている状態にあるようにとのご命令です。「良き行為を成せとの命令」は、すなわち、「魂を養うこと」です。なぜなら人間は魂と体でできており、体が成長のために栄養を要するように、魂もその向上のために栄養を要するからです。
体が要する栄養の元来の姿は、人間が泥から創造されたことから理解できます。つまり身体の栄養は大地(植物や草を食む家畜等)から得られます。そして魂は、アッラーからやってきています。これについては聖句で幾度となく述べられています:【あなたの主が,天使たちに,「われは泥から人間を創ろうとしている。」と仰せられた時を思え。 (71) 「それでわれが,かれ(人間)を形作り,それに魂を吹き込んだならば,あなたがたは伏してかれにサジダしなさい。」】(38/71-72)聖句は私たちに人間は土泥でできた身体と、アッラーの吹き込みによる魂でできていることを教えてくれています。そしてこの2要素はそれぞれ栄養を要します。身体の栄養は身体を保ち、魂の栄養は人類全体を保ちます。
人間が全ての願望を叶ようとすると、同じことをしようとする他人とぶつかります。そこで「魂の栄養」が体の欲求に制限を設けます。そして人間一人ひとりが個人の行為を制限することで、他人との関係に距離を保ちます。
「魂の栄養」は、体の欲に勝ちます。個人がその願望を叶えようとするところに「魂の栄養」は決まり事を定め、個人が他人を敬うようにしたり、他人の満足や幸福のために努めるようにさせます。
アル=アウス、アル=ハズラジュ2部族も、「魂の栄養」を得た後は、他方を優先するようになりました。その例は、数々の戦の中にも見られました:負傷した戦士に水が運び込まれると、「私よりも兄弟を先に」と言いました。すると水が運び込まれた二人も「私より兄弟を先に」と言い、3人も同じことを言いました。最後の者に水が届けられると、その者はすでに亡くなっており、その前の者もすべてが亡くなっていたのです。彼らは自分の兄弟がまず水を飲むことを望みました。誰もが要しているだろう戦場における少量の水です。「魂の栄養」を得る前の彼らはお互いを殺そうとしていた人たちです。そして「魂の栄養」を得た後の彼らは、自分よりも他人を優先する人になったのです。59章9節は彼らに関して啓示されました。【自分自身に先んじて(かれらに)与える。仮令自分は窮乏していても。】自分が必要としていても兄弟を優先しました。
この期間に行う崇拝行為や善行の「形」について意味しているのではなく、社会の中で私たちが愛し合えるようにしてくれる「魂の栄養」について意味しているのです。
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