アッラーに近づこうと努めるが兄弟を嫌うムスリムには何の益もありません。アッラーは彼をお咎(とが)めになるでしょう。なぜならアッラーは崇拝行為によって人間同士の関係を良くすることをお命じだからです。
クルアーン啓示と預言者様ﷺが遣わされる前のマディーナには、アル=アウス、アル=ハズラジュの2族が居住しており、イスラーム前には彼らの間に相違、戦争が多く起きていました。
イスラーム到来後、彼らは兄弟となり、敵・戦争相手から兄弟・強い絆に変わりました。
その兄弟愛についてはクルアーンが言及するほどです。
しかし、ある時、面白くない隣人のユダヤ人は彼らの間に仲違いのきっかけを作ったことにより、二部族の人たちはせっかく作り上げることのできた自分たちのつながりを一瞬にして忘れてしまい、剣を振り上げて喧嘩しそうになりました。人間というものは崇拝行為等で忙しくしていないと魂が尊大になってしまうものです。
そこを彼らの知らせを受けたアッラーの使徒ﷺがお止めに入り、おっしゃいました:
『信徒たちよ。私がいるのに無明時代のやり方か。アッラーがおまえたちをイスラームに導き、厚遇(こうぐう)くださり、無明時代の諸事を絶ち、お前たちを背信から救い出し、おまえたちの心を通い合わせたくださった後にか。』
すると彼らはアッラーの使徒様ﷺの声掛けによって我を取り戻し、剣を捨て、抱き合い、泣いた、ということです。
この話から、「アッラーに近づくための行為」は「崇拝行為の形」の話なのではなく、「自身の変化」であることがわかります。「欲の放棄」、「アッラーの道標に戻る」話です。ですから私たちはこの期間、私たちの魂を養ってくれる、かの崇拝行為を必要とします。単に、聖なる日々の中で、かの崇拝行為を捧げるだけ、ということではありません。私たちはこの期間に「祝福された人格者」になれるよう目指します。個人が人間関係をバラバラにしてしまうような諸問題を解決しないうちは「祝福された人格者」になれません。夫婦間、友人間、隣人間で問題があるなら解決しましょう。
多くの人がこの期間に単独で善行を多くしようとしますがその影響が彼らの行動の中に見受けられません。私たちが隣人や家族や友人に対して「祝福された人格者」にならない限り、崇拝行為の祝福、今の聖なる期間の祝福を受益できません。
アッラーはクルアーンの各所にて彼のしもべをその人格、人との接し方そして彼らの崇拝行為を使って描写し給うています。このことは、行う崇拝行為だけでなく、他人との接し方を良くすることも「善良な人」になるために必要であることを表しています。
アッラーのお言葉【だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。】は、イスラーム社会に属する人たち全てに向けられています。「誰も、己に不義をしてはならない」と仰せではないことに注目してください。聖句は、信徒たちはお互いを愛し、全体が一つであるかのように生活しなければならないという意味を持ちます。これはもちろん容易なことではありません。特に、自分は改善しようと思っても、周りがそうでない場合、特に難しく、改善した人は被害者となってしまいます。アッラーはこうなることを御存知です。では私たちはどうしたらいいでしょう?ある人は、「私は良い人とは良い態度で接し、悪い人には悪い態度で接する」と言いますが、これはアッラーの道標とは異なり、善人、人格者の行動ではありません。
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