بسم الله الرحمن الرحيم
24.それで人間には己の食べ物の方をよく眺め(考え)させよ。
25.(つまり)われらが水をざあざあと注ぎ、
26.それから、大地を(植物の萌芽によって)裂き割り、
27.それから、そこに穀物を生やし、
28.またぶどうや青草を、
29.またオリーブやナツメヤシを、
30.また生い茂る庭園を、
31.また果物や牧草を、
32.おまえたちとおまえたちの家畜のための慰楽(活計)として(生やしたことの方をよく眺めさせよ)。
33.それで(復活の)耳がおかしくなる程の大音声が来た時、
34.(つまり)人や己の兄弟から逃げる日、
35.また母や父からも、
36.また伴侶や子供たちからも(逃げる日には)、
37.彼らの誰もが、その日、己の気を奪うものを有する(自分のことで精一杯である)。
38.数ある顔はその日、明るく、
39.笑い、喜ぶ。
40.また、数ある顔はその日、上に塵があり、
41.埃が顔を覆う。
42.それらの者、彼らこそ不信仰な背徳者である。
人間が始めどのような姿だったかやまたその終わりの姿について解明した後、クルアーンはアッラーが人間に与え給うた恩恵の数々を思い起こさせます。そうすることで人間に感謝するよう促すためです。その一つが、生きていくために不可欠である食べ物に目を向けることです。至高なる御方アッラーは仰せになります:
「それで人間には己の食べ物の方をよく眺め(考え)させよ。(つまり)われらが水をざあざあと注ぎ、それから、大地を(植物の萌芽によって)裂き割り、それから、そこに穀物を生やし、またぶどうや青草を、またオリーブやナツメヤシを、また生い茂る庭園を、また果物や牧草を、おまえたちとおまえたちの家畜のための慰楽(活計)として(生やしたことの方をよく眺めさせよ)。」
植物を萌え生やすという奇跡は、人間の創造と同等の奇跡です。両者とも原形質から出来ています。
植物と人間の原形質はとてもよく似ていますが、植物や果物、木の種といった細胞の中に奇跡は隠れています。これらは大地を裂き、同じような種子や木々を作り出す能力を持っているのです。
同様に、アッラーの叡智はこれら植物に栄養を与える雨にも隠れています。「(つまり)われらが水をざあざあと注ぎ」この雨が太洋、大河、湖の蒸気からいかに構成されているか。そして決められた季節にいかに降下し、大地の命の存続に関わっているか。そしてこの雨がいかに大地を裂いて、植物、ぶどうの房を、新鮮な緑、オリーブ、ナツメヤシを生えさせるきっかけとなっているのか。「また生い茂る庭園を」つまり数多くのしっかりとした木々を持つ園を指します。「おまえたちとおまえたちの家畜のための慰楽(活計)として」人々よ、おまえたちがこれらの作物から益を得、ラクダ、牛、羊といった家畜に餌をあたえるためだ、という意味です。
続いてクルアーンは人々に審判の日の存在とその恐ろしさを思い起こさせます:
「それで(復活の)耳がおかしくなる程の大音声が来た時、(つまり)人や己の兄弟から逃げる日、また母や父からも、また伴侶や子供たちからも(逃げる日には)、彼らの誰もが、その日、己の気を奪うものを有する(自分のことで精一杯である)。」
「耳がおかしくなる程の大音声」がやってくるとき。それによって審判が起こります。その激しさは、聴覚を失わせてしまうほどです。その時、人間は自分に最も近い人を拒否します:兄弟、母、父、妻、子供から逃げてしまいます。皆それぞれ、自分のことしか頭にありません。他のことを考える余裕がないほどの悩みを抱えています。
そして審判の日には信仰者がどのような状態にあるか、そして不信仰者がどのようにあるのかの描写で終わります:
「数ある顔はその日、明るく、笑い、喜ぶ。また、数ある顔はその日、上に塵があり、埃が顔を覆う。それらの者、彼らこそ不信仰な背徳者である。」
その日の信仰者たちの顔は「明るく」つまり輝き、光っています。「笑い、喜ぶ」アッラーから戴いた恩恵や栄誉のために嬉しくて笑っています。代わって不信仰者たちの顔はその日、「上に塵があり」つまり塵と煙に覆われます。悩みのために塞ぎ込むことを意味します。「埃が顔を覆う」屈辱に覆われるということです。「それらの者、彼らこそ不信仰な背徳者である」彼らこそがアッラーを信仰せず、過去に行なった罪業を気にしなかった人たちです。そのためにアッラーが彼らの悪い行いに対して報われるのです。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP41~42)
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