一年半に渡って、病院から介護施設へと入院生活を続けてきた父が3月23日朝に亡くなりました。
満90歳でした。
父は現在のロシア領ユジノサハリンスク、かつては樺太庁豊原市という我が国の領土だった街の生まれ。
昭和20年8月にソ連軍の樺太侵攻を受け、生命からがら駆逐艦に乗せられ舞鶴に着いたそうです。
日本に逃げ帰る船がソ連の潜水艦に魚雷攻撃を受けるなど多くの犠牲者が出るなかにあっては奇跡的な生還だったのかもしれません。
その後、親戚を頼って福島県に移住、9年後、昭和29年に母と結婚してすぐ、また北海道に渡ってきたそうです。
私には一つ疑問がありました。
それはあの戦争で生命の危険に晒されながら逃げ帰った人間がなぜ、また北の北海道を目指したのかということです。
福島でそれなりの仕事もしていたようですので、何もまた北を目指さなくてもいいのではないかと思っていました。
一年半の入院生活の中で父と話す時間が多く取れました。
成人してから、これほど父と話をすることはなかったように思います。
そして私のこの疑問を父に聞いたところ、その答えは「北の大地へのあこがれ」だったのだそうです。
どんなに苦しい思いをしても北海道には、父の心を魅了する広大な大地があったのでしょうね。
私もこれからは、「北の大地を愛しながら」日々生活していきたいと思っています。
3月23日の朝に看護師さんと短い会話をして、「息子さんのCDをかけますか?」という問いかけに笑って頷いたそうです。
そして私の歌を聞きながら、何も苦しむことなく穏やかに最後の時を迎えたようです。
コロナウィルスの影響で、施設の面会も制限されていましたので、最後の瞬間には居合わすことができませんでしたが、自分的には自分の音楽で、最後の親孝行ができたのではないかなと思っています。
父がお世話になったすべての皆様に心から感謝を申し上げ、謹んでご報告させていただきます。
■ ラッコマン オリジナルソングス 鎮魂歌
満90歳でした。
父は現在のロシア領ユジノサハリンスク、かつては樺太庁豊原市という我が国の領土だった街の生まれ。
昭和20年8月にソ連軍の樺太侵攻を受け、生命からがら駆逐艦に乗せられ舞鶴に着いたそうです。
日本に逃げ帰る船がソ連の潜水艦に魚雷攻撃を受けるなど多くの犠牲者が出るなかにあっては奇跡的な生還だったのかもしれません。
その後、親戚を頼って福島県に移住、9年後、昭和29年に母と結婚してすぐ、また北海道に渡ってきたそうです。
私には一つ疑問がありました。
それはあの戦争で生命の危険に晒されながら逃げ帰った人間がなぜ、また北の北海道を目指したのかということです。
福島でそれなりの仕事もしていたようですので、何もまた北を目指さなくてもいいのではないかと思っていました。
一年半の入院生活の中で父と話す時間が多く取れました。
成人してから、これほど父と話をすることはなかったように思います。
そして私のこの疑問を父に聞いたところ、その答えは「北の大地へのあこがれ」だったのだそうです。
どんなに苦しい思いをしても北海道には、父の心を魅了する広大な大地があったのでしょうね。
私もこれからは、「北の大地を愛しながら」日々生活していきたいと思っています。
3月23日の朝に看護師さんと短い会話をして、「息子さんのCDをかけますか?」という問いかけに笑って頷いたそうです。
そして私の歌を聞きながら、何も苦しむことなく穏やかに最後の時を迎えたようです。
コロナウィルスの影響で、施設の面会も制限されていましたので、最後の瞬間には居合わすことができませんでしたが、自分的には自分の音楽で、最後の親孝行ができたのではないかなと思っています。
父がお世話になったすべての皆様に心から感謝を申し上げ、謹んでご報告させていただきます。
■ ラッコマン オリジナルソングス 鎮魂歌