名古屋美人という言葉を、ごぞんじだろうか。こうきりだすと、たいていの読者は、いぶかしく思われよう。そんなの初耳だ。秋田美人や新潟美人ならともかく、名古屋なんて聞いたことがない、と。
ざんねんながら、名古屋が美人の産地としてとりざたされることは、今日ほとんどない。だが、明治大正期の名古屋は、その点に関するかぎり、圧倒的な名声をほこっていた。往事の新聞雑誌も、しばしば名古屋美人を、声高に論じている。評判の高さでは、秋田や新潟などをはるかに凌駕(りょうが)していたのである。
のみならず、東京新橋の花街は、名古屋の出だという芸妓を、おおぜいおいていた。うちには名古屋の美妓が何人いると、置屋はたがいにはりあってもいたのである。新橋につどう芸妓の間では、尾張言葉が一種の共通語にさえなっていた。
明治期の権力中枢を、西南諸藩の男たちが牛耳ったことは、よく知られていよう。そして、薩摩や長州などから上京した彼らを、江戸ッ児たちは、田舎者だとあなどっている。旧幕時代以来の伝統的な花街である柳橋も、彼らを見くびった。
だが、西南日本からやってきた新時代の権勢家たちも、芸妓とたわむれたい。そんな男たちの要望にこたえたのは、明治期に勢いをつけた新しい花街、新橋であった。由緒ある柳橋がつめたくあしらった明治の出世組を、新橋はあたたかくむかえたのである。
とはいえ、明治早々のころに、新橋が多数の芸妓をかかえていたわけではない。新興の、まだ小さいこの花街に、その準備はできていなかった。そのため、新橋は尾張徳川侯の時代に芸所(げいどころ)とされた名古屋へ、芸妓の供給を依存する。維新で花柳界がさびれ、芸妓のあまった名古屋から、女たちをひきぬいた。
こうして名古屋は、東京新橋へ芸妓をおくりこむ、その後背地めいた地域になっていく。名古屋が明治期から、美人の産地としてもてはやされたのは、そのためである。
新橋にあつめられた名古屋芸妓は、お高くとまった柳橋芸妓より、サーヴィスがいい。性的な方面でも、しばしば注文に応じてくれる。そんな裏情報とともに、名古屋じたいが助平な街なんだという評判も、高まった。
そして、この時代、大阪はまだ好色都市として、それほど強く印象づけられていない。その方面で、大阪が名古屋を上まわり、浮上していくのは、もっと後になってからである。 (国際日本文化研究センター教授)