山王アニマルクリニック

日々の診療、いろんな本や音楽などについて思い巡らしながら、潤いと温もりのバランスを取ってゆこうと思います。

数字のモノサシ2/生命現象の数値化はどの程度正確なのか?

2014-09-26 15:36:17 | 医療の波打ち際

  前回の続きですが、全体としてはつながっている生命の営みも、様々な科学的枠組みの発見によって次々と細分化されています。例えば血……大昔は血といえば私たちの身体が傷つくと流れる赤い液というくらいの認識だったでしょう。顕微鏡などが発明されると、血液の中にも赤血球と白血球があることがわかりました。さらに白血球もよく調べてみると、細菌と戦う多数派である好中球、免疫反応を担うリンパ球、アレルギーや寄生虫によって増える好酸球、食欲旺盛な単球、一番レアな存在の好塩基球が……という感じでどんどん細かく分類されていったのです。

 赤血球も白血球も、液体の中に光学顕微鏡で確認できるレベルの小さな粒として存在しているので、数えることができます。そして細かい縦横の線が書かれたスライドグラスという感じの血球計算盤が作られました。すべて数えるのはとても大変なので、血液を薄めた上で血球計算盤の上にたらし、小さく区切られた四角の中の血球の粒を実際に数えて(全部数えるのが理想ですが、大変なので5区画ほど)、全体の大きな四角の中の推定値を算出する……ここまでの説明は、かなり効率が悪く大変そうと感じてもらうために書いてみました。

 この方法は今でも用いられていますが、忙し過ぎる現代の臨床ではどの程度使っている先生がいるのでしょうか?おそらく学生時代の実習以来経験のない人も多い気がします。今は(高価ですが)血球計算機があれば、電気の力で効率良く測定してくれます。

 今までの経験上、血球計算機は特殊な例を除いて、そんなに誤差はなかったように思います。また特に赤血球数は、貧血がひどければ薄い血液となり、脱水がひどければ濃い血液となるので、重篤なケースでは肉眼的に色やとろみでなんとなく予想がつきます(薄口と濃口醤油の違いみたいな感じです)。それ以前に貧血がひどければ、西洋医学的にも可視粘膜(舌や口腔粘膜や目)を見て、健康なピンクか?それとも不健康に白っぽくなってないか?などを見てある程度は判断できます。

 そして西洋医学の場合は具体的に血球などを数値化するので、正常値と異常値を明確に数字で区別します。しかし検査機械全般に言えることですが、メーカーによって正常範囲が微妙に異なったりして、真面目な人がボーダーラインの数値に近かったりすると「正常なんですか?異常なんですか?」と戸惑うかもしれません(電気式の体温計なども機械によってノリが少し違いますよね→正常値というより基準値なんです)。

 ちなみに東洋医学(中医学)では血が少ないことを血虚といいますが、おもしろいことに血球計算機などの数値で赤血球数が正常範囲でも、中医学的には血虚ということがあります。中医学の場合は、脈診や舌診の他、毛のつやが悪い、筋肉のひきつりやこわばり、不安感などのような症状によっても血の不足を推定します。おそらく血の数量はどれくらいか?よりも、結果として血は有効に機能しているか?に重きを置くということでしょうか。

 問題は血液生化学検査です。まず、この検査の仕組みの一例をざっくりと説明してみます。血液成分にある試薬を混ぜると、青色に変化したとします。その青色の濃さがある検査項目の成分の濃度を反映しているので、その色の濃さを段階的に分け数値化する……という感じです(機械により吸光光度法や比色法があります)。

 色の濃さを機械が判断するので、

①     溶血:赤血球が破壊されヘモグロビンが放出されること(採血時、注射器を強く引き過ぎたりすると起こりやすい)により血漿が赤くなってしまうこと

②     高脂血症:血液中の脂肪成分が多くて、血漿が白っぽく濁ってしまうこと

③     黄疸:肝臓・胆道疾患などにより血液中の胆汁色素(ビリルビン)が増え、血漿が黄色くなってしまうこと。

※血漿/血液から有形成分(赤血球・白血球・血小板)を除いた液体成分のこと

 ①~③があると、それらの色が追加され、濃度が高いと判定されてしまったりします(検査項目によっては逆に薄く判定されることもあります)。

 この中で経験上、特に要注意なのは高脂血症です。血液検査前に、特に高脂肪なものを食べていると高脂血症になって測定誤差が生じやすくなってしまうのです。また、蛋白質の過剰摂取なども影響を与えるので特に健康診断の場合、血液検査前12時間は絶食した方がいいのです(常識と言えば常識ですが、以下のように日頃の食生活も要注意です)。

 特に肝臓機能の生化学検査(ALT、AST、胆汁酸、ALPなど)において、全く症状がないにもかかわらず、数値だけ高いために何度も検査をされ、薬を出され続けるので不審に思い……というようなケースを時々経験します。そんなケースの場合、飼い主さんの家庭の誰かが溺愛して高カロリーなおやつなどをたくさん与えて高脂血症になっていたりすることも多いような気が……そして食生活を改善できれば高脂血症も治り、肝機能の数値もやはり正常ということに……?(当院の生化学検査の機械は、検査ごとに溶血、高脂血症、黄疸のレベルを3段階評価で表示してくれますが、これらの表示のない機械もあります。数値だけ高めだが症状は全くない……そんな不安のある方はご相談下さい)

 しかし肝臓用の処方食を出されていたけれど、高脂血症があるから肝臓は大丈夫なんじゃないの~と高脂血症を改善する処方食に変えてみたら、調子が悪くなりやはり肝臓も悪かったのか?というケースも一例だけありました。一つの枠組みだけで考えるのではいけませんね。

 数値化すると目に見えにくいものでもある意味での可視化が可能となるのですが、わかりやすく見えるものがあると人はそれしか目に入らなくなってしまうのかもしれません。そして、人はそれぞれ自分が見たいものを、言い換えるとその時点の自分に都合が良いものしか見ないという傾向があるのでしょう。

 肝臓や腎臓の病気でもひどいケースでは典型的な症状があるのですが、ひどい貧血と比べると見た目だけで推定するのは難しいのです。それらの症状でなんとなく目星をつけた上で無駄なく必要な検査だけを行うのが理想です。しかし医学の教科書では、どんな病気でも様々な角度から客観的に評価するべきというような理想も書いてあります。ここで理想と理想がぶつかり合ってしまいます。間違いを防ぐために血液検査、超音波検査、レントゲン検査など様々な枠組みで捉えようとすればするほど、飼い主さんの経済的負担や動物たちの身体的負担は大きくなってしまうのです。最低限の検査を目指すことのメリットとデメリット、できるだけ多くの検査で間違いを最低限にすることのメリットとデメリット……さて?どちらの理想を優先すべきでしょうか? そして生命現象はどの程度正確に数値化できているのでしょうか?

 臨床現場の実感として個人的に一つのヒントになると思われる科学的事実は……腎機能検査として用いられている血中尿素窒素(BUN)とクレアチニン(Cre)は、腎機能が残り25%以下にならないと数値が上がってこないということです。腎機能が半分ダメになっていても正常値のままで、3/4以上がダメになった段階になると、やっと数値が上がってくるのです(腎機能が50%くらい低下すると、尿の濃さである尿比重が低下してきます)。腎機能を数値として一番正確に反映するのは糸球体ろ過率(GFR)らしいですが、そのように精度が高いと言われる検査は手間がかかったり、試薬が手に入りにくかったりするので大学病院のような所でないとほとんど行われていないでしょう。

 それに獣医学の専門書では、肝臓や腎臓に限らずだいたいの臓器での最終診断は数値よりも病理検査の方が正確な診断につながるという方向の記述です(数値などによる推定ではなく、実際に細胞を取り出して、どのようになっているか顕微鏡で見るわけですから当然なのですが)。そして最近の傾向としては、超音波診断装置で臓器を確かめながら、筒状の針のようなものを刺して、少量の組織をくり抜くのです(超音波ガイド生検)。組織を取るためにはそれなりの太さの針状のものを刺さなくてはなりません。動物の場合、局所麻酔では痛がって暴れ、大きな血管を傷つけてしまうかもしれません。

 最高レベルの機械を用いた最高レベルの先生ならば身体への負担が最低限になるように臓器から組織を採取してくれるのでしょうが、超音波ガイド生検だと、少量の組織しか取れず臓器全体の状態を反映している保証はないのです。また針を刺した所からの出血がひどいかどうか超音波で確認するのが難しいので、結局、お腹を切ってより多くの組織を取り、出血がひどくないかどうか直接確認する方が良い?みたいなことが書かれたりしています(中間的アプローチとして腹腔鏡を使った生検もあります)。しかし重症の子ほど麻酔と手術に耐えられない可能性も高くなり、診断はついても治療につながらなかったり、そのまま息を途絶えて…ということにも……このように精度が高いと言われる検査ほど、身体にも負担がかかったり、コストが高かったりするのです。

 例えるなら、CT(コンピューター断層撮影法)で早期の小さな腫瘍を発見しようとすればするほど、X線照射により身体を細かいレベルで輪切りにしていかなければならないので、被曝量も増える―その被曝によって逆に発ガン―と本末転倒になってしまうような可能性がなんとなくあるのです(PET検査とかはそこまで負担はないのかしれませんがコストは間違いなく高いでしょうし、結局CTとの組み合わせの検査になってしまうようですね)。

 救済のために生命を犠牲にするのか?生命のために救済を犠牲にするのか?(これはフランツ・カフカの「流刑地にて」の解説にあった言葉の応用です)

 想像してみると、訳がわからなくなってきませんか?でも多くの臨床家は、このような矛盾と毎日少なからず格闘しています。何だかイライラしている先生ほどヤヤコシイ病気の子を抱え、葛藤しているのかもしれません(ちょっと違う方向の葛藤を抱える猛者もいますが、何か様子がおかしい時は、よーく前後左右上下を観察してみて下さい)。逆にいつもニコニコして愛想が良かったり、自信満々で迷いなど微塵も感じられなかったりする先生ほど、実はこれらのことをあまり考えていないなんてことも?……まあ、これもバランスの問題で、どちらに偏り過ぎてもいけないのですが、よーく状況を観察すると裏と表が逆だったりします。

 話が複雑になってしまいましたが、以上のように様々な要因による測定誤差などから考えても、より謙虚に命と対峙してゆくためにも、生命現象の数値化は、特に簡単にできる検査では1/4くらいしか正確でないかも?と考えておいた方が良い気がします(あくまで個人的見解です)。

 病をなるべく早期に発見したい気持ちはわかります。でも、血液検査などをたくさん受けたら健康になるというわけではないのです。具体的な症状が全くない場合、簡単な血液検査などで早期発見できる可能性は、みなさんが期待しているよりはかなり低い……と思われます(みなさんの期待値によります)。逆に上記のような測定誤差などによって必要のない薬を……とならないための簡単な?方法は、また後日書こうと思います。

 数値が時代を動かす力は早く、目に見える説得力を持ちます。輝かしい現実的成果をあげることで、難解と感じている多くの人々だけでなく反発する人々の身体さえも動かしていきます。現実とのズレを感じつつも何だかわからないうちに、数値を使うのではなく、数値に翻弄され、意のままに動かされるロボットのようになって魂は置き去りに……なんて言葉は、ジャンボジェット機やスカイツリーなどの現実的成果の前では何の説得力もありません。

         さて我々はどうしたらよいのでしょう?

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