歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

『妻たちの二・二六事件』他から

2023-02-08 16:43:43 | 歴史 本と映画
この時期になると、毎年、気になる二・二六事件。

昭和11(1936)年2月26日。
二十数名の青年将校と彼らの思想に共鳴する民間人が、千五百余の
下士官兵を率いて時の首相をはじめとする重臣達を襲撃、殺害して
「維新政府」を樹立しようとしたクーデター未遂事件」
(『図説』4頁)である。

小学生の頃、テレビの「今日は何の日」コーナーで事件を知り、
怖くてたまらなかった。以来、妙に気になる。

今年は、1989年公開の映画「226」を、30年ぶりに観たこともあり、
当時、読んだ澤地久枝「妻たちの二・二六事件」など、
関連本を読んでいる。
「妻たちの...」は、再読なのに、ほとんど記憶はなく、
読むのに難儀したことしか覚えていない。

澤地氏は、故・向田邦子氏のエッセイにもたびたび登場の親友である。
向田さんは、澤地氏というと、この作品を引き合いに出し
必ず褒める。
そのたびに、さしたる感想を持てなかった自分が恥ずかしかったものだ。
(若かったね、わたしも。)

30年の年月は、少しは、人の世界を広げる。

今回、記憶が無いながらも読み返したところ、
辛くて、先を読めないことも、ままあった。

以下は、その備忘録。



なんと言っても衝撃的なのは、栗原康秀中尉。
(岡田啓介首相を襲撃)

歌人の斉藤史との幼なじみ、ということだ。

晩年、その歌会に参加したという人から、
数年前、
「白うさぎ雪の山より出(い)でて来て殺されたれば眼を開き居り」を
教えられた。  
以来、この歌は栗原を歌った歌のような気がしてならない。

栗原は好男子で、映画では佐野史郎が演じており、
絶対にイメージが違うと、声を大にして言いたいけれど。

その栗原。
妻に宛てた、獄中書簡に「僕の所へ何故こないのだ、僕は君が欲しいのだよ」と書く。澤地は、これを中尉から妻への謎かけと読む、
すなわち二人して死後の世界へ立つことを暗に示したのではないかと。
また「独房のA中尉が恋い焦がれたのは、a夫人の現し身である。」120頁と
その書簡は、澤地が書く通りだ。

それなのに、彼は、事件の直前、打ち合わせと爆弾運搬のため、
地方都市(豊橋)へ妻ではない女性を連れて行く。

偽装のためだけではない。
「新婚の妻と濃やかな愛の生活をつづけながら、Aは結婚前の愛人との
関係を復活させていた」と澤地は書く。

夫人は、それを夫の遺品整理の最中、
日記を盗み読んだことから知る。
職業軍人は、日記をつける習慣をたたき込まれていたという。
それを、本人の刑死後、妻が読む・・・

夫人は、後に、消息を絶つ。
以後、二・二六事件と一切の関わりを持たなかった。
事件後、毎年、関係者が集まって、法要を続けていたにもかかわらず・・・
(本書刊行時までは存続)

事件後、1度は自殺未遂までを起した夫人が
この日記を読み、その後、再婚の道を選んでいる。

澤地氏は、作中で、名前を伏せていたけれど、
前後関係から、「もっとも急進的であった陸軍中尉A」は栗原のことだろう。

映画「226」の原作とされる、笠原和夫『2/26』(集英社文庫)を
読めば、この件について、はっきりと触れられていることからも、わかる。


栗原は脇が甘すぎる。

急先鋒の栗原をして、こんなに甘くては、
クーデターが成功するはずもない。




とばっちりというか、事件で都合良く消されたとしか思えないのは、
元陸軍少尉・西田税(みつぎ)。

夫人は言う。

「革命運動を志す者は、確かに結婚などしない方が
よろしいのじゃないかと思います。...
二・二六事件の若い青年たちは、
何故あれほど急いで結婚なさったのでしょう」148頁

西田夫人は結婚歴の長い方ながら、それでも「十年ちょっと」。
その他は、妻帯者の多くが新婚で、坂井直(なおし)中尉にいたっては
一緒に暮らしたのは10日ほどだったという。
(坂井も斉藤史の幼なじみ)

決起の失敗など考えもしなかったのだろうか。
その後、妻が、どれだけの重荷を人生の中で背負って生きるのか、
そんな想像が出来ない者に、国家の大事を考えられては
たまらない。

あらためて『妻たちの二・二六事件』を読み直し、
刑死した青年将校には怒りしか感じない。



けれど、西田の妻は言う。

「一緒に起き伏しした時間の三倍も一人で生きて参りましたのに、
西田の姿は今日までとうとう薄くはなりませんでした。
...おいて逝かれた悲しみは、涯がないようでございます。
夫婦の因縁とはこんなにも深いものなのでございましょうか」164頁

判決を待つ間、西田は五・一五事件で負傷した腸の傷が悪化、
手術をすることになり、夫人は10日ほど、夫に付き添うことができた。

「あれほど心と心が通い合ったことはございません。
一言一言の会話にしみじみとした思い、いとおしみといたわりが
滲んでおりました」158頁

監視下にありながら、夫人が、これほどまでに言う時間。
これがあればこその、「おいて逝かれた悲しみ」なのだろうか。

西田夫妻は西田の親の反対で入籍できず、
その後、そのままになっていたのが、西田の死刑求刑の直後に
入籍したのだという。

そんな夫婦の深い因縁だろうか。



二・二六事件で反乱者の未亡人となった女性は14人。

事件からほどなく再婚した妻は、
栗原の妻と、渋川善助の妻だけ。

当時の感覚としては、再婚などありえないし、
毎年の法要では、先輩夫人から口紅の色を控えるよう、
注意される一幕も後輩夫人にはあったという。
そんな厳しいまなざしの中である。
再婚した妻が、いっさい関わりを持たず、
沈黙を貫いたのも、当然だろう。


以前、NHKの「226」特集番組で、
鈴木貫太郎侍従長を襲撃した、安藤輝三大尉の
遺品が鈴木貫太郎記念館に展示されることになり、
「申し訳ないが、ただただありがたい」と
ご子息が恐縮されていた。

安藤は事件の数年前に鈴木を訪ね、その人柄に感じ入ったという。
決起に対しても、もっとも慎重で、実際に事件を起こしてからは
もっとも強硬で、兵を軍隊に帰すことに最後まで反対し、
兵を帰してからは、拳銃自殺を図っている。(未遂)

その安藤の子息らしい、実直なお人柄が伺えた。

わたしは、どうも安藤に甘い。
映画で三浦友和が好演していたからかもしれない。
しょせん、わたしなど、その程度の認識と思考しかないと
自嘲するばかりだ。

安藤夫人は、故郷・静岡で洋裁教室を開き、子ども達を育て上げ、
一方で洋裁学校にまで広げ、その校長としての顔も持っていたという。
夫人もまた、筋の通った人であったのだろう。

いつか、鈴木貫太郎記念館を訪ね、安藤の遺品と向き合いたいと思う。



こうして、「妻たちの二・二六事件」からのメモをまとめていると、
きりがない。

ひしひしと感じるのは、
誰も当事者達が、しあわせになっていないことだ。
それどころか、辛酸をなめる結果となった。

刑死した者は、自業自得かも知れないが、
活躍すべき道は、いくらでもあったろうに、才を散らしてしまった。

妻や子の苦労はいわずもがなだ。
結果的に母と子の仲が引き裂かれてしまった、香田清貞大尉の
妻と子の例もある。

そして、今なら罪に問われないと原隊に帰還した一般兵士たち。
『図説 2・26事件』(河出書房新書)によると、
彼らは、明らかに差別され、ことあるごとに「反乱者」と呼ばれた。
「汚名返上」を強要され、「白骨となって満州より帰還せよ」と
恫喝されたものもいたという。

しかも、事件に参加した兵士は、
「満期除隊はするものの、二度三度と招集され、
四回以上招集された者もめずらしくない」(155頁)そうだ。

誰の得にもなっていないのだ。

事件は、ただ、陸軍内部の派閥抗争に
利用されただけだったのではないだろうか。


いろいろ書いたが、青年将校が国を憂う気持ちは、
美しく、まっすぐな心であったことは間違いあるまい。

その美しい心を利用しようとする大きな存在が、必ずある。

それが1番恐ろしく、危険なことを忘れてはならない。



ウクライナの戦争だけでなく、
今、世界中が焦臭い・・・

「これからも、戦後でいられるといいね」と
正月に、つぶやいた人がいた。
一緒に居た仲間が、皆、黙ってしまった一瞬だった。

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最後まで、お読みいただき、どうもありがとうございました。

個人の備忘録であり、ご不快の念を抱かれた節は、
素人の駄文、とお許し下さいませ。

参考および引用:
◆澤地久枝『妻たちの二・二六事件』 中央公論社 昭和62年3月24刷
◆太平洋戦争研究会編 平塚柾緒著 『図説 2・26事件』河出書房新社

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