大村はま氏の言葉。
「教師は持ち前の知識でその日その日を過ごすことのできる危険な職業です。」
この言葉の重さを教師になってからずっと感じていた。
どんなに学級経営が上手く行っていても、先生方が授業をほめてくれてもいつも危機感があった。
明日学校に行ったら、子どもたちが全員私の言うことをきかなくなる。
授業がわからない、つまらいと言う。
学級内で差別やトラブルが始まる。
そんな夢を何度もみて、夜中に起きたこともある。
実際には、そんな風にならなかったが、いつも不安や不安定な思いを抱えていた。
だから、常に学ばなければと思った。
そうしない自分がいやだったし、子どもたちに自信をもって指導することができなかった。
子供の努力の2倍も3倍も勉強しなければ子どもたちの前に立つことはできないと感じていた。
教師になるような人は学校でそれなりの成績はとっていた人だ。
秀才といわないまでも、勉強がまったくわからないという人は先生にはなれないだろう。
大学を出て、教職課程を履修して、教員採用試験を突破してきた人が学校に勤務している。
ある意味、教師集団は他の企業には見られない高学歴集団だとも言える。
だから、教えている内容は持ち前の知識でカバーできる。
これまで自分が学んできたことで授業ができてしまう。
厳密には授業とはいえないものもあるが。
だから、新しい情報を学ぶとか収集するとかいう考えにはいきにくい。
というより困らないのだから、手に入れようとは思わないだろう。
この新しい情報、この重要性は言うまでもない。(と私は思っているが、一般的にはそれほどもないのかも。)
孫子の兵法の誰でも知っているこの言葉はその情報の重要性を言っている。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」
中国春秋時代に書かれた兵法書「孫子」の一節。
敵と味方の情勢を把握していれば、どんな戦いでも勝つことができるという意味。
敵を知り、味方の事情も知っていれば、百回戦っても危険が無く、戦いに敗れることはない。
敵を知らず味方の事情を知っていれば勝ったり負けたりする。
敵を知らず味方の事情も知らないのでは戦うたびに必ず危険になる。
情報戦をおろそかにすれば必ず敗れ去ることは歴史が物語っている。
敵を知ることは自分を客観視することにもつながるのである。
自分を分析する。
こういった視点も忘れてなならないだろう。
これほど、情報は戦略的には必要不可欠の要素なのである。
ある意味、学級経営、学校運営は戦略的な面がある。
年間通して子どもたちをどう育てるか、どのようなステップをふんでレベルアップしていくか、まさに戦略である。
どう授業を組み立てるかを考えたときに、それには最新の情報収集が必要になってくる。
誰でも、病院で手術を受ける時に、10年以上前の術式しかできない医師より、最新の術式を習得している能力の高い医師に命を預けたいと思うだろう。
まあ、授業が失敗したからといって、子供の命が危険にさらされることはない。
しかし、教師も子どもたちの成長に大きな影響を与えているという認識と人生の一端を担っているという自覚は忘れてなならない。
金銭や時間という対価を払わずして有益な情報は手に入らないことは明らかである。
でもそれをしない。
そんな教師に教えられている子どもたちは幸せだろうか。
教えられている内容的なものもそうだが、一番私が心配するのは、担任からでる「気力」みたいなもののことを危惧する。
学ぶ意欲の低い教師からは、その先生から学ぼうとか、真似したいとかいう気持ちを子どもたちに起こらない。
逆に、常に新しい情報を手に入れ、自ら本を読み、自己研鑽に励む。
そういう姿勢は、言葉ではなく、教師の気力として子どもたちに伝わる。
その気力が子どもたちを感化し、影響を与えていくのである。
やる気のある人に触れれば、やる気が出る。
だから、自分をどんな組織や集団に身を置くかということが自己の成長を規定するのである。
禅語にも、次のような言葉がある。
「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る(ころもしめる)。よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり。」道元
良い人のそばにいれば、自ずと良い影響を受け、悪い人と行動を共にすると、自然に悪い方向へと流れて行ってしまう。
一寸先も見えないような濃霧の中を歩いていると、いつの間にか衣服が湿ってしまうように、人は、身を置く環境によって、知らず知らずの内に影響を受けるもの。
周りの環境によって、良くも悪くも感化されて行くという、環境から受ける影響の大きさを示していると言える。
今一度情報の重要性を理解し、積極的に収集にあたることを行動として起こす。
そして、手に入れた情報を詳細に分析し、自分の修養に役立てることも重要なことだ。
saitani
「教師は持ち前の知識でその日その日を過ごすことのできる危険な職業です。」
この言葉の重さを教師になってからずっと感じていた。
どんなに学級経営が上手く行っていても、先生方が授業をほめてくれてもいつも危機感があった。
明日学校に行ったら、子どもたちが全員私の言うことをきかなくなる。
授業がわからない、つまらいと言う。
学級内で差別やトラブルが始まる。
そんな夢を何度もみて、夜中に起きたこともある。
実際には、そんな風にならなかったが、いつも不安や不安定な思いを抱えていた。
だから、常に学ばなければと思った。
そうしない自分がいやだったし、子どもたちに自信をもって指導することができなかった。
子供の努力の2倍も3倍も勉強しなければ子どもたちの前に立つことはできないと感じていた。
教師になるような人は学校でそれなりの成績はとっていた人だ。
秀才といわないまでも、勉強がまったくわからないという人は先生にはなれないだろう。
大学を出て、教職課程を履修して、教員採用試験を突破してきた人が学校に勤務している。
ある意味、教師集団は他の企業には見られない高学歴集団だとも言える。
だから、教えている内容は持ち前の知識でカバーできる。
これまで自分が学んできたことで授業ができてしまう。
厳密には授業とはいえないものもあるが。
だから、新しい情報を学ぶとか収集するとかいう考えにはいきにくい。
というより困らないのだから、手に入れようとは思わないだろう。
この新しい情報、この重要性は言うまでもない。(と私は思っているが、一般的にはそれほどもないのかも。)
孫子の兵法の誰でも知っているこの言葉はその情報の重要性を言っている。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」
中国春秋時代に書かれた兵法書「孫子」の一節。
敵と味方の情勢を把握していれば、どんな戦いでも勝つことができるという意味。
敵を知り、味方の事情も知っていれば、百回戦っても危険が無く、戦いに敗れることはない。
敵を知らず味方の事情を知っていれば勝ったり負けたりする。
敵を知らず味方の事情も知らないのでは戦うたびに必ず危険になる。
情報戦をおろそかにすれば必ず敗れ去ることは歴史が物語っている。
敵を知ることは自分を客観視することにもつながるのである。
自分を分析する。
こういった視点も忘れてなならないだろう。
これほど、情報は戦略的には必要不可欠の要素なのである。
ある意味、学級経営、学校運営は戦略的な面がある。
年間通して子どもたちをどう育てるか、どのようなステップをふんでレベルアップしていくか、まさに戦略である。
どう授業を組み立てるかを考えたときに、それには最新の情報収集が必要になってくる。
誰でも、病院で手術を受ける時に、10年以上前の術式しかできない医師より、最新の術式を習得している能力の高い医師に命を預けたいと思うだろう。
まあ、授業が失敗したからといって、子供の命が危険にさらされることはない。
しかし、教師も子どもたちの成長に大きな影響を与えているという認識と人生の一端を担っているという自覚は忘れてなならない。
金銭や時間という対価を払わずして有益な情報は手に入らないことは明らかである。
でもそれをしない。
そんな教師に教えられている子どもたちは幸せだろうか。
教えられている内容的なものもそうだが、一番私が心配するのは、担任からでる「気力」みたいなもののことを危惧する。
学ぶ意欲の低い教師からは、その先生から学ぼうとか、真似したいとかいう気持ちを子どもたちに起こらない。
逆に、常に新しい情報を手に入れ、自ら本を読み、自己研鑽に励む。
そういう姿勢は、言葉ではなく、教師の気力として子どもたちに伝わる。
その気力が子どもたちを感化し、影響を与えていくのである。
やる気のある人に触れれば、やる気が出る。
だから、自分をどんな組織や集団に身を置くかということが自己の成長を規定するのである。
禅語にも、次のような言葉がある。
「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る(ころもしめる)。よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり。」道元
良い人のそばにいれば、自ずと良い影響を受け、悪い人と行動を共にすると、自然に悪い方向へと流れて行ってしまう。
一寸先も見えないような濃霧の中を歩いていると、いつの間にか衣服が湿ってしまうように、人は、身を置く環境によって、知らず知らずの内に影響を受けるもの。
周りの環境によって、良くも悪くも感化されて行くという、環境から受ける影響の大きさを示していると言える。
今一度情報の重要性を理解し、積極的に収集にあたることを行動として起こす。
そして、手に入れた情報を詳細に分析し、自分の修養に役立てることも重要なことだ。
saitani
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