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英国人医師「ウィリアム・ウィリス」と慈恵会医科大学を創立の「高木兼寛」

2012-04-07 18:37:18 | 鹿児島ゆかりの人

▼ドルフィンポート 桜島桟橋通電停 「赤倉の跡碑」




 歩道上にぽつんと建っている碑。ドルフィンポートから歩いて数分,鹿児島市小川町,桜島桟橋通電停の近くの歩道には「赤倉跡」と彫られた小さな石碑。

 赤倉跡とは,鹿児島医学校の病院の跡地を指します。ここに鹿児島藩が1869(明治2)年に招いた英国人医師ウィリアム・ウィリスのために建てた病院が赤レンガ造りの洋館であったことからそう呼ばれていました。

 この碑に目をとめて立ち止まる人はいません。街に溶け込みあって当然の道標となっているからなのでしょうか。

◇ウィリアム・ウィリス
 
1837(天保8)年北アイルランド生まれ,1894(明治27)年英国で死去

 文久2年駐在英国公使館付医官として来日。生麦事件では,英国人被害者の治療や検死に立ち会った。翌年,この事件に端を発する薩英戦争に際しては英国艦船に同乗して負傷者の治療に従事した。

 東大医学部の前身東京医学校兼大病院を主宰。明治2年西郷・大久保らの推薦で鹿児島に来て医学校と病院を建て、西南戦争が起こるまで主宰。鹿児島で老後を過ごすことを望んだが,西南役後の新政府の思惑からかなわず,母国に帰国して1894(明治27)年57歳で没。

 ウィリアム・ウィリスに学んだ薩摩藩兵の軍医 高木兼寛は,脚気の予防法を確立し、東京慈恵会医科大学を創立した。



  ◆ウィリス,高木に西洋医学を説く」(鹿児島県民交流センター横)

◇高木兼寛


 出典:ウィキペディア

 薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市、昭和の大合併前の東諸県郡穆佐村、昭和の大合併後から平成の大合併前までは東諸県郡高岡町)に生まれる。

 18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869年)、開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学ぶ。明治3年(1870年)、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学するが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された。

 明治21年(1888年)日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。さらに日露戦争で麦飯の有効性が注目されていた明治38年(1905年)には、華族に列せられて男爵位を授けられた。


 
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  薩摩藩の軍医として戊辰戦争に従軍した高木兼寛は、戦争のむごたらしさと戦傷に対処できない漢方医の無力さを憂い、西洋医学習得の必要性に目覚める。

 やがて明治海軍に入った兼寛は、努力の甲斐あってイギリスへの医学留学の機会を得る。抜群の成績で最新の医学を修めて帰国した兼寛は、海軍病院長として、当時の海軍と陸軍軍人の病死の最大の原因であった脚気の研究に取り組む。

 兼寛は水兵の食事内容を分析した結果から、脚気は食物が原因と考えるようになる。それに対してドイツ医学系の陸軍軍医部は、森林太郎(森鴎外) が中心となって「細菌原因説」で反対してきた。

 そこで兼寛は、333名が乗り組む軍艦「筑波」 の食事内容量を指定することによって「食物原因説」の立証に取りかかる。兼寛が多くの反対を押し切って実行させた287日間の食事指定航海は、「病看一人も無し」 の電信によって報われるのである。

 脚気の予防法を確立し、東京慈恵会医科大学を創立した男を描いた迫真の歴史ロマン。

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