2、所信表明演説の背後に隠されている黒い狙い(新自由主義的排除型社会の構築)
🔶日本を滅亡させる不健全な株価操作
先日朝日新聞の調査報道で株式市場の恐るべき実態が明らかになった。
※公的マネーが大株主 8割 東証1部 4年で倍増、1830社に GPIF・日銀
http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/758.html
以前にも指摘したが、7年半にわたる安倍政権の経済政策(アベノミクス)の検証とアベノミクスの大転換なくして、日本経済の復興はない。
同志社大学の浜教授などが「アホノミクス」と酷評した経済政策によって現在の日本の株価がどうなっているかをこの記事は明らかにしている。それによれば、東証一部上場の大手企業株の8割を公的マネーが所有しているそうだ。
※公的マネー⇒国民年金基金と日銀のETF
11月8日、ジョー・バイデンが米大統領に当確したというニュースが流れるや、日本の株式がバブル以来の高値を付けたそうだ。
コロナ下の経済状況を考えれば、株価がバブル以来の高値を付ける条件はない。しかし、株価だけはこの不況下でも上がり続けている。米国も同様。もはや、株式市場がその国の経済状況を判断する指標ではない、という実態がこれ一事でも良く分かる。株式市場は実体経済とは無縁のマネーゲームの戦場であり、現在の株高は如何に株式が操作されているかを如実に示している。
アベノミクスとは、要するにこの株高操作につきる。国民の財産である年金と中央銀行の日銀が、財閥中心の大手企業の株を買い占め、異様な株高を演出している。完全な経済的手品と言って良い。
さらに罪深いのは、この実体経済と無縁の株高操作は、金持ち優遇策の最たるものだ、と言う事である。
企業株式の8割を年金基金と日銀のETFで買い支え、企業業績とかけ離れた株式相場を維持するということは、日本経済の上げ底化であり、国民に日本経済の本当の姿を隠すことになる。
さらにいえば、日本の企業株式を所有している株主(金持ち)は、濡れ手に粟で自らの資産を増やすことができる。
それだけではない。株高になると各企業は役員に特別手当を払う所が多いそうだ。企業経営者の経営努力によって企業業績を上げ、株高になる。そういう経営者に特別手当を払うのなら、納得がいく。
しかし、アベノミクス下の株高はそうではない。株高の要因は、日銀のETFや年金からの投資。それでいて、役員の懐に数億円が黙って転がり込む。文字通り濡れ手に粟。当然、そのおこぼれは大株主にも配当されるという仕組み。
企業実績なしの空中楼閣の株高とその株高に胡坐をかいた企業経営者たちの太った豚どもが、日本沈没に歯止めをかけられるわけがない。その空中楼閣を国民の年金と日銀資金で支えるのだから、損する危険なしの博打を打っているようなもの。人間こんな方法でお金が稼げれば、血を吐く思いで企業革新に取り組もうなどという【エネルギー】は生まれなくなる。
カルロス・ゴーンの強欲ぶりを非難する連中は多いが、それでもカルロス・ゴーンは日産を立て直した実績がある。濡れ手に粟で、億万長者になっている日本経営者の悪党どもとどちらが非難されるべきか。誰にでも分かる理屈である。
🔶露骨なメディア支配
安倍前首相退陣前後からTVの変わりようが激しい。
(1) TV局の編成が大幅に変わった。⇒最大の変更点は、コロナ報道が激減。コロナ問題を主導的にリードした感染症学者、医者などがほとんど姿を消した。(代表者が岡田教授 ※最近、コロナ第三波の拡大により、出演しはじめた)
(2) コメンテーターの顔ぶれに変化⇒多くの局に、橋下徹が出演。彼の異常な出方を見れば、背後にかなり力のある何かが蠢いていると想像できる。(※大阪都構想の背後に、電通とパソナに代表される大企業の目論みがある。維新はその代弁者だと考えてよい)
(3) 内閣支持率などの上げ底が露骨。菅内閣の支持率など酷すぎる。ある人が指摘していたが、ネット上の菅内閣の支持率は0.6%だそうだ。標本数5,000。まあ、ネットでの支持率もある種のバイアスがかかっている場合も多いので、そのまま鵜呑みにはできないが、TVや新聞の支持率60%超えなどは信じられる数字ではない。
⇒ここから言えることは、大衆操作が大っぴらに行われ始めた、と言う事である。いままでなら、多少遠慮気味に行われていた大衆操作(プロパガンダ)が白昼公然と行われ始めたと言う事である。
(4) TV局のプロパガンダ(スピン報道)⇒現在のTV報道を見れば一目瞭然。米国大統領選一色。誰も投票権もないのに朝から晩までよく飽きないものだ。属国が宗主国の大統領選に一喜一憂しているようなものである。
もう一つは、芸能人やスポーツ選手の不祥事を延々と報道する。芸能人が交通事故を起こし、逃げたからといって、執拗に報道する価値があるのか。要するに、大衆の目を他の出来事に引き付けるのが目的。
日本国内の出来事の方がはるかに国民にとって重要。それを何一つ報道しないようにするのがTV局の仕事。典型的【愚民化】報道である。
このように、大手メディアが電通と日本会議などの支配(バックに米支配の影)を隠さなくなりはじめているのが現在の状況。(橋下徹の露出の多さが象徴)
このメディアの後押しを受けて、70%超の上げ底支持率で順風満帆の船出をしたかに見えた菅内閣だが、好事魔多し。日本学術会議の任命拒否問題で「衣の下の鎧」を見せた。この問題で、あっという間に、菅義偉と言う人物の底が割れてしまった。「パンケーキ好きの気の良いおじさん」から「逆らったら何をされるか分からない」という底知れない恐怖を伴った不気味な権力者の顔へと変貌した。
下の記事を読めば、辺見庸が語る「特高顔の恐怖」の意味が分かる。
※菅首相に抵抗し飛ばされた元総務官僚・平嶋彰英がジブリの雑誌で青木理に語った恐怖支配の実態!「あそこまでひどい人はいない」
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_11345/
さらに、初めて国会答弁に臨んだ菅首相は、文字通り「スカスカ」の中身を露呈した。一問一答の論理的に詰めた議論には耐えられない、というお粗末さ。わたしもTVを見ていたが、「支離滅裂」の一言。これが日本の総理だと思うと恥ずかしく情けない。
では彼の目指している社会は何か。というより、彼を担いでいる黒幕たちの狙いは何か。
かって、自民党の派閥闘争が盛んだった時代、「担ぐ神輿は軽くて、パーが良い」というのがあった。要するに、担ぐ人間(黒幕)たちの狙いを唯々諾々と聞いてくれる人間ほど良い。生半可に自分を持っていて、正義感を振り回したり、依怙地なほど自分の信念に忠実な人間は、担ぐのに面倒だ、という意味。
その意味では、菅首相は、かなりやりやすいのではないか。理由は明快。自前の派閥は持っていない。自らの哲学に基づいた強い理想や信念はない。論理的整合性にこだわらない。(※別の言葉で言うと、実務型。さらに言えば、空気を読むことに長けている。⇒こういう人間ほど権力に固執する。権力行使に酔いしれる傾向がある)
これがTV報道の変化の大きな理由だと考える。メディアを使い、虚像を振りまき、スピン報道を多用して、国内政治の問題点を覆い隠す。権力を振るい、他者を支配するのが大好きな首相の感性を満足させるため、これから以降も次々と強権的ファッショ的政策を打ち出すに違いない。菅首相を支える黒幕たちの野望は広がるばかりだろう。(※竹中平蔵ののさばり方を見れば、この先の日本の運命が見える)
🔶新自由主義的排除型社会
辺見康が指摘するように、彼や彼らの目指している社会の形は、英国の社会学者ジャック・ヤング氏がいう【排除型社会】に近いと思われる。(毎日新聞)
【排除型社会】の対極に位置するのが、【包摂社会】。
20世紀後半、先進各国で起きた社会的変容は、農村共同体的社会の絆が急速にほどけた時代である。日本で言うならば、日本各地に工業地域が生まれ、農村から都市への急速な人口移動が起きた。この社会の変化は、当然ながら個人主義と社会的平等意識の高まりを生み出した。その背景にあるのが、市場経済の浸透であり、それに伴う社会生活の変容と国民意識の変化だった。
それに伴い、過去の安定的で同質な【包摂型社会】も変化せざるを得なくなった。日本で言うならば、農村共同体的生活や意識が崩壊し、地縁・血縁社会から、社縁社会へと変貌を遂げ始めた。それと同時に個人主義的発想が高まり、社会的平等意識も大きくなった。
しかし、市場の力が大きくなるにつれ、社会の内部にすこしずつ【差異】が目立ち始めた。政治や公共生活、職場、教室、家族などにじょじょにゆっくりそれでいて確実に浸透し始めた。
過去の安定的で同質な社会(包摂社会)⇒変動と分断を推し進める(排除型社会)へとの変質が始まったのである。
▼【排除進行の三局面】
(1) 労働市場からの経済的排除
(2) 市民社会で進行している【社会的排除】
(3) 刑事司法制度と個人プライバシー保護の両極で広がっている【排除的活動】
ここでは詳細に論じる事はできないが、20世紀後半から始まった【構造変動】はいまだに続いており、世界各国でその功罪が問題になり始めている。
日本でも顕著になったが、正規雇用の労働市場も、非正規雇用の労働市場も根底から変容した。女性の雇用形態も劇的に変化。経済構造に根ざす失業者が大量に生みだされた。コロナ下の現在、その変化がより顕著に目立ち始めている。農村型コミュニティーは崩壊し、多様な文化を包含するコミュニティーが生まれた。
個人主義が社会の隅々まで浸透し、社会のあらゆる領域で制度化され始めた。社会に残存している【包摂型社会】の歴史的制度が、個人主義を背景にした制度へと変更され始めた。
一例を挙げれば、保育所に集まる子供の声がうるさいといって保育所建設に反対する住民がいる。児童相談所を建設すると、周辺の地価が下がると猛反対する連中もいる。子供の泣き声がうるさいと怒鳴り散らす大人もいる。子供は社会の宝と考え、子供の施設は多少迷惑でも受け入れるという考え方が主流だった【包摂型社会】では、考えられない人々の出現である。
このような形での構造的な社会的・文化的変容が深く進行し、その変容が、反社会的行為や犯罪行為に深く結びついているのが現代社会。その為、現代社会は、現に存在している行動規範や基準を巡る論争を余儀なくされる。(
隣人トラブル、ゴミ屋敷など)
▼ 存在論的不安の時代
その意味で、現代社会を【生きる】と言う事は、加速度的に【困難】さが増している。わたしたちの生活は、かってのように「こうしておけば大丈夫」という生活上の安心感は消え失せている。
終身雇用が普通であった時代に比べて、仕事や人間関係が希薄になり、日常生活を営むこと自体が【恐怖】と【不安】に晒されている。(オレオレ詐欺や詐欺的商法の横行。中には家に押し込んでの強盗・尊属殺人の増加)
しかも、非正規雇用の常態化。年金の目減り。介護の不安などなど。物質的・金銭的不安と同時に、生きていること自体が【不安】であるという【存在論的不安】の時代に住んでいる。
🔶現代社会の差異の拡大⇒排除型社会の拡大
しかも、わたしたちの社会が抱え込んでいる【差異】は年々広がるばかり。規則の変容は年中行事。自分の属している集団の規則も複雑になるばかり。(例;電話料金や電気料金など。)だから、これらの規則の意味を論じているTVメディアへの依存度は高まるばかり。メディアで論じられる規範(浮気の功罪など)など、過去どの時代もこれほど細密に論じられた事はない。
現在の社会は、過去のどの時代よりも、【世間様にお詫びをする】という日本独自の風習が幅を利かせている時代。TVワイドショウーの報道の餌食になった政治家・経営者・スポーツ選手・芸能人などの「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げる姿こそ、日本社会の後進性の証明だという認識すらない。日本には、個人の自立を前提にし近代の『社会』という概念がないと言っても良い。
この姿こそ、いわゆる【排除型社会】の一つの典型。本来、芸能人の浮気など誰の迷惑でもない。芸能人の家族と浮気相手の間で解決すればよい。文字通り、個人の問題。しかし、現在は浮気がばれると、芸能の仕事から排除される。CMに出ていたら、イメージを毀損したとして損害賠償を請求される。
昔、「嵐 寛寿郎」という役者がいた。東映時代劇のスターで、「鞍馬天狗」が最大の当たり役だった。彼は他の大御所(片岡千恵蔵、市川歌右衛門など)が悠々自適の老後を送っているのに、最後まで映画に出続けた。理由は単純明快。女性関係が派手だった寛寿郎は、別れた女性(かなりの数)に、別れる度に、全財産を与え、身一つで家を出ていた。それが嵐寛寿郎の美学。彼は女性と別れた後は、無一文。だから、稼がねばならなかった。
わたしがその理由を知ったのは、彼の死後、嵐寛寿郎の評伝を読んだ時だった。撮影所では知らない人がいないくらい有名な話。それでも報道されなかった。
わたしから言わせれば、それで十分。彼の女性遍歴が何であれ、彼の映画人としての評価に何の影響もない。嵐寛寿郎が生きていた時代に比べれば、現代の役者たちはなんと不自由な時代に生きているのかと思う。【排除型社会】の生きにくさが良く分かる。
先日、坂上忍の番組で、西田敏行が委員長をしている日本俳優組合のアンケート調査が紹介されていた。その中で、仕事で悩み自殺を考えた俳優が3割強もいるそうだ。そう言えば、今年に入って、三浦春馬など数人の俳優の自殺が報道されていた。
何度か以前に指摘したが、最近のTV報道は、政治などで政府が批判される問題が浮上するたびに、俳優・スポーツ選手などの有名人のスキャンダル報道を執拗に行い、政治面などの重要な問題をスルーさせる(忘れさせる)いわゆるスピン報道が増えている。その為、彼らのほんの些細な問題を必要以上に執拗に追及し、無理やり謝罪に追い込む傾向がある。これが些細な【差異】を必要以上に大きく浮上させ、社会的【排除】を正当化させている。
自殺した俳優たちの理由は良く分からないが、いつ『社会的排除』の憂き目に遭うかもわからないという場で生きることの【困難】さは、想像を絶する精神的負荷がかかっているのだろう。
🔶排除型社会への対処が「排除」をさらに進行させる
【差異】の拡大と生きる事の【困難】さの増幅は、明らかに都市型社会の特徴であろう。
◎微温的生き方
このような社会を生き抜くためには、わたしたちは、きわめて用心深く、計算高く、世故長けて生きなければならない。できるだけ【困難】な問題は回避し、異質な人々との距離を取るのは常識。他者との関係は、自らの安全を脅かされない限りで行う。この種の用心こそ現代社会を生き抜くための常識と言って良い。
◎しかし、こういう社会では、上記のような微温的生き方(忖度こそ最大の美徳)に満足できない人の存在も無視できなくなる。どうしても、自らの正義(自分自身が道徳的に正しいと確信している)を主張しなければ我慢できない人も出てくる。それは以下のような形で進行する。
道徳主義的主張の過激化⇒他者の否定⇒排除型社会の拡大
物質的に不安定・存在論的不安⇒自分の感情を他者に投影(苛立ちをぶつける)⇒
▼正統化のため、過剰に道徳主義的になる。⇒非難の応酬 (自粛警察的行為)
↓
生活保護受給者・シングルマザー・高齢者・ホームレス・アンダークラス・黒人・麻薬常習者など弱い立場にある人々が、非難を浴びせられ、悪魔のように忌み嫌われるようになる。(日本もアメリカも同じ)
コロナ下のエッセンシャル・ワーカー(看護師など)への差別。
わたしの県では、罹患したある女性の家族は、地域から転出(周囲の陰口、陰湿な差別)。罹患した女性は自殺(職場でのいじめと言われている)のような悲劇が生まれている。おそらく、他府県でもあるだろう。第一波の時、東京で見られたような自粛警察の暴走。(戦前の隣組を彷彿とさせる)
ここで見られるのは、些細な【差異】を修復不可能な【差異】として排除する思想。これが社会的に定着すると、典型的な【差別社会】になる。オーウェルの「1984」の世界までの距離はほんのひと飛びである。
🔶菅内閣と黒幕たちの目指す社会
菅内閣の目指す社会は、この【排除型社会】のさらなる拡大に他ならない。
以前、わたしは、新自由主義型社会の実験場としての中南米特にチリやベネズエラ・アルゼンチンの経済政策について書いた。そして、それが如何に米国の武力と一体化した米資本主義の暴力的進出と結びついているかを論じた。
※ベネズエラで進行している米国によるあからさまな政府転覆計画
この新自由主義型資本主義の遅れた実験場と化している日本だが、この首謀者(理論的黒幕)が竹中平蔵。小泉内閣の時、竹中平蔵の下で竹中の政策の実現に汗を流したのが、菅義偉首相。竹中平蔵は菅義偉首相の経済のブレーン。菅内閣でも竹中平蔵は経済ブレーンとして重用されている。
と言う事は、これまでの【新自由主義的】社会のさらなる進展が、菅内閣の目標だろう。
この事は、日本が米資本主義と米国産軍複合体の草刈り場になると言う事を意味する。菅首相や竹中平蔵、橋下徹などが口を開けば、【改革】【改革】と叫んでいるが、これは、米資本が稼ぎやすいように日本の法制度を改革すると言う事を意味している。一言で言えば、【日本売り】政策のオンパレード。今国会で言えば、【種苗法改正法案】などが最たるもの。彼らの言う【改革】とは、日本国民から言えば、【改悪】そのものである。
早速、竹中平蔵は、「ベーシックインカム】の導入を叫んでいる。1人、1ヶ月7万の収入を保証するが、生活保護制度も国民年金も健康保険も廃止。7万円で全てまかなえ、という話である。
東京での生活を考えれば、どうやって生きて行けと言う話。家賃、電気代、水道代、食費、交通費、だけでも、生きてはいけないだろう。それに加えて、病院代は自前。救急車を呼べば、7万円自前で払わされる米国型医療システムの導入を考えているのだろう。
おまけに、東京都知事は国の任命制にするそうだ。全てを国の統治下に置こうというのだろう。地方分権など全否定するつもりなのだろう。明治時代に逆戻りするつもりなのか。要するに、民主主義の選挙などは認めない。戦前型ファッショ社会の再来を望んでいるのだろう。
まあ、パソナのように、非正規労働者の生き血を吸って肥え太っている会社の会長らしく、血も涙もない経済理論。この国で暮らしていかねばならない物言わぬ庶民の事など眼中にない。
ここではっきり見えるのは、1%の支配層と99%の被支配層の明確な分断と政府に抵抗する連中の【排除】だろう。
だから、理性と知性のある学術会議(学者など)が、邪魔で仕方がない。まともな経済政策など何一つ打ち出せないボンクラ経済学者(御用学者)のバカげた政策に乗って、歴史的使命をとっくに終えた周回遅れの「新自由主義」的経済政策をさらに推し進めるつもりだろう。
このままでは、日本は、【排除型社会】のさらなる進展になり、米国型分断社会が到来するに違いない。
もう一度書いておく。【米国の10年後は日本】。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水