6日の東京新聞の筆洗に日本の魚食文化の衰えの話題が載っていた。昭和25年、笠置シヅ子の歌に当時の食事情が反映しており、当時の主婦が第一に向かう先は魚屋さんと歌い込まれている。因みに歌の中に出てくる魚はタイ・ヒラメ・カツオ・マグロ・ブリとサバ。
1950年当時の魚の消費量は一人当たり年間15kg弱だった。その後1970年頃まで上昇していき35kg程に達し、以降2000年までの30年間35~40kgの範囲で推移。2000年以後から筆洗も憂える魚食文化の衰えが始まっており、2020年には23.4kgになってしまったと記している。
戦後の魚の消費量の変遷は上記の様だったが、ついでに他の主要食材の変遷をマクロ的に見てみると、以下の様になる。
主食のお米は、年間一人当たりの消費量で見ると、1962年の118.3kgをピークにその後、魚と同様に減少を続け2020年に50.7kgまで低下している(農水省ホームページ)。
大豆を始めとする豆類はというと、乾燥豆ベースの供給量から見ると1970年頃までは一人一日当たり大豆または大豆以外の雑豆(小豆・インゲン・ソラマメ・エンドウ豆等)をそれぞれ約13g摂取していた。1970年以降、雑豆は減少していき最近では5.7~5.8gになり、一方大豆は若干の変動はあるものの漸増の傾向で2018年には18.4gとなっている。
乾燥豆ではなく調理済みの豆類食品(大豆と雑豆を併せて・含水)では2004~2019年の間あまり変動はなく、50~60gの間で推移している。因みに70才以上の年齢層は全体の平均より15g程多い約77gを食べているという。
牛・豚・鶏肉等の畜肉の消費は、1960年一人1年の食肉供給量が3.5kgであった。それが2013年には8倍以上の30kgとなり、2020年に42kgにまで拡大している(「肉の消費からわかること データで見るSDGs」日本総合研究所・村上芽)。2013年から2020年までの7年間に着目すると年平均5%ずつの増大が起こっていたことになる。
卵は2018年に一人年間337個を消費している(日本卵業協会データ)。
乳製品は生乳換算で1965年に一人当たり年間約38kg。2014年に約90kgとなっている。
小麦は一人当たりの消費量が1980年~2010年の間31~33kgで推移しており、2020年の予測目標は28kgが設定されていた(農水省)。
健康を維持するために考慮すべき必要な栄養素はいくつもあるが、ここでは最も重要と考えられる蛋白質に着目して、現在一人一日の蛋白摂取量を算出すると次のようになる。
魚:全ての魚の蛋白含量の平均を18%と仮定すると、(23400x0.18)/365=11.5g
お米:精白米の蛋白含量を6.1%として(日本食品標準成分表2020による)
(50700x0.061)/365=8.5g
豆類:大豆18.4x0.338=6.2g(日本豆類協会データ、大豆中に33.8%の蛋白として)
雑豆5.75x0.21=1.2g(雑豆の蛋白含量を21%と仮定) 豆類合計7.4g
畜肉:(42000x0.19)/365=21.9g(牛豚鳥肉の蛋白含量を19%と仮定)
卵:(337x6.2)/365=5.7g(卵一個当たり6.2gの蛋白が含まれる。日本卵業協会)
乳製品:(90000x0.032)/365=7.9g(生乳の蛋白含量3.2%、カロリーSlismより)
小麦:(28000x0.75x0.1)/365=5.8g(製粉時の歩留を75%、蛋白含量を10%として)
以上を合計すると68.7gになる。
この議論には唐茄子やイモ等の野菜や果物、そして例えばトウモロコシ菓子等の菓子類を含めていないので、最低限の一人当たりの一日蛋白摂取量を示しており、実際は日に70gをはるかに超える量が現在、市民に供給され摂取されていることになると思われる。
この結論はある意味当たり前のものである。蛋白摂取量に問題あれば市民に栄養失調等の状況が頻繁に発生しているはずで、現実は若干心配すべき部分があるのは事実だが、それは例えば格差の解消等いくつかの問題であり、今回はこの点はここで留めることとしたい。
戦後の食事情の流れは、国の採用した食の欧米化の展開による変遷であったことが、畜肉の消費量の推移と、一方魚食文化とコメ文化の衰退とを比較すれば容易に見てとれる。
魚は2000年頃の40kg消費から現在の23.4kgへ。と言うことは、一人一日約8.2gの減少。
お米は1962年の118.3kgのピークから2020年の50.7kgへ。と言うことは11.3gの減少。
一方畜肉は1960年の3.5kgから2020年の42kgへ。と言うことは+20g。
魚とお米の蛋白減少分(19.5g)をピッタリと畜肉が埋め合わせている。
国が採用した農業と漁業とを軽視し、それを工業製品の輸出力温存のカードに工業基盤の貿易立国へと更に舵を切ることを選択した国策が招いた結果を、如実に示している。
ここでもう一つ注目すべきは、大豆と雑豆類の消費量の動きで、雑豆類の減少はあるものの大豆と雑豆を合計した全体の消費量はこの間特段の変化が無く推移してきている点である。文化としての食は、元々は変えること・変わることが難しい本来的には極めて保守的なものであることを示している例だろう。この点は後に触れたい。
この食文化の急激な変化を、市民の立場として、良かった方向だったと総括するのか?そして今後もその方向(例えば畜肉消費量の伸びが最近年5%で伸びていることの継続の放任、及び特に米消費量の急激な低下の継続の放任)を是認できるのか?が今回考えてみたい観点である。
いくつものポイントが判段材料としてあると思う。以下に列挙していきたい。
(1) 日本の国土の特徴が活かされているか?
それぞれの国には、国が置かれている環境にあった食があるものである。例えばアメリカは広い土地があり、牧草地が豊富に存在したが故に家畜の飼育が好都合の国だった。また土地の痩せているインドでは栽培しても痩せない豆(空気中の窒素を土壌に固定する細菌が共生していることにより土地の肥沃化が期待できる)を育てるのが国情に合っており、雑草を食べるヒツジやヤギの飼育が適している国であったという特徴を活かして暮らしてきている。
翻って現在の日本は湿潤・温暖気候に合った米作を軽視し、また四方を海に囲まれ、しかも栄養たっぷりの親潮と黒潮がぶつかる良好な漁場が面前にあるにも関わらずに漁業をも軽視しており、国土の特徴を活かしているとは言えない。
反対に国土の大半は急峻な地形で米・野菜は可能だが家畜飼育には適していない地域が多い中での畜肉偏重の国策は、飼育に必要な濃厚飼料素材の確保一つをとっても極めて困難な国土であることから、必然的に海外からの飼料の輸入に依存する体質にならざるを得ず、食料の自給の重要性をそもそも放棄した経営を国が取り、市民がそれを是認してきていると総括できるだろう。
お米と魚の復権を求める義務と権利が市民にあると思う理由です。
(2) 文化としての食は、本来変わりにくい・変えることが非常に難しい性質のものである。
このことは、大豆と雑豆類との消費量が変わりなく続いていることからも言えることである。また例えばお米も含めてうどん・ソバ・そうめん等の伝統食を考えた場合、その食べ方自体はほぼ不変であり、変らずにきていることから明らかに言えることである。
本来文化としての食を変えること、しかも急激に変えるという政策判断はすべきでなく、やむを得ず進める場合にも極めて慎重に市民の意向も尊重されるべき極めて保守的なものである。高度成長期以降、食の欧米化へと性急に舵を切ったやり方はやはり問題だったと指摘したい。
(3) SDGsの観点、気候変動問題、水資源の略奪戦争問題、森林資源伐採の問題
牛・豚・鶏肉等の畜肉食を優先することの弊害問題をおさらいして見よう。
一つ目の問題はその生産に要する飼料の点である。牛肉1kgの生産に11kgの大豆やトウモロコシを主体とした飼料が使用され、豚肉1kgには6kg、鳥肉1kgには4kgが要されるという問題(農水省「世界の食料需給の動向」2021年3月、日本における飼育方法を基にしたトウモロコシ換算による試算)。飼料となっている穀物を直接食することを選択すれば、肉では1人1kg分が、穀物直接摂取では6-7人が各人1kg分の栄養が取れていたことになる。これが畜肉食を優先する場合の問題点の一つである効率性の悪さである。
二つ目の問題としてこれら濃厚飼料の材料となるトウモロコシと大豆の生産の為に実際、世界中にある耕作地の75から80%が、人が直接食べる食料生産の為でなく家畜が食べる飼料生産の為に使われているという実態がある。
今後世界人口の増加に伴い穀物需要量も増えるが、食用よりも飼料用の需要の方が、増加率が高いと予測されている。従って飼料用穀物生産のための新たな耕作地の確保が必要になることは確実であり、森林伐採問題が今後も更に拡大して続くことが懸念される所である。この問題は気候変動問題等にも繋がる事柄であり、別の機会に触れていきたい。
三つ目の問題として限られた水資源の略奪や奪い合いの問題がある。今、世界は水不足の問題が深刻化している。畜産業は大量の水を消費する。これは一つ目の問題で触れた点である少量の肉生産のために4~11倍の飼料穀物が必要で、この生産の為に大量の水資源が必要となると言うスキームである。
例えば環境省のVirtual Waterによると、1kgのトウモロコシ生産に水1800リットルが必要とされている。牛肉1kgのためには11kgの穀物を消費するので11x1800=19,800リットル、約2万倍の水が牛肉1kg生産の為に必要となるということである。豚肉1kgの生産の為には10,800リットル、鳥肉1kgには7200リットルの水が必要となる。
一方、大豆を直接食べる場合には畜肉と大豆に蛋白含量が大差ないことから、大豆1kgに必要な水1800リットルで足りることになる。耕作地の面積のみならず、水の量の観点からも穀物を畜肉生産経由で肉の形で食べるよりも、直接に人が穀物を食べる方が望ましいと言える。
水資源の略奪問題に関して、UNESCO(国連教育科学文化機関)が「2030年には世界人口が現在の78億人から85億人になるとともに、世界人口の47%が水不足になる恐れがある」と警告している。
地球上には水は無限にあるものと考えがちであるが、生活や農業・工業に利用出来る淡水は全体の2.5%、約3500万立方kmという。しかもその2.5%の内1.7%分は利用が出来ない氷河や南極の氷として存在しており、更に残りの0.8%分の大部分は、利用が難しい地下水という。従って人類が取水しやすい淡水量は地球の水の0.01%の約10万立方kmだという。
2005年のデータによると日本の海外から輸入している濃厚飼料の裏に付随している水(Virtual Water)の量が約800億立方mになるという。計算すると、この800億立方mの量は10万立方kmの0.08%に相当している。世界の利用可能な淡水の0.08%を使用する生活を現在日本は行っているという認識を真剣に考えなければならないと思う。
更に今後も肉優先の生活の拡大を是認するということは、限りある水の奪い合い戦争の悪化を促進する行動を取ることだとの認識が求められるだろう。また金さえあれば何とでもなるという問題では全くなく、人間の良心に関わる事柄と信じる。
食料の自給率の改善を放棄して畜肉食優先を志向している現在の生活は、時限爆弾を抱えての不安定なものである、との認識を国は勿論のこと、市民も持つべきであり、少なくとも飼料の自給化を目指す活動を強力に推進すること無しでの畜肉食品のこれ以上の拡大は間違った方向だとの認識を、市民ならびに国として持つ必要があると考える。
今後水不足の問題が拡大し更に問題化した場合に、我々市民の食事情は飼料穀物の輸入問題に加えて水戦争の観点でも世界から批判されることになるだろう。大豆ならびに雑豆を尊重し、魚食文化を尊重し、お米文化を尊重する姿勢がやはり市民には求められると考える。
(4) 魚食の問題を見ると、ここでも現在主流の2つの漁法(捕獲漁法と養殖漁法)それぞれに課題があると言われている。
前者は底引き網漁法の問題。後者は畜肉同様の濃厚飼料の問題や抗生物質使用問題。この問題は別の機会に触れることとするが、日本の地理的環境を考えた場合、近年の魚食文化の衰退は残念な方向であり、再び魚食の拡大・興隆が実現する方策に関して市民も国も智恵を絞る必要を感じている。
SDGsはSustainable Development Goals。でも、もし実態がSustainable Development “designed & empowered by mega-corporation & governing classes” Goalsに偏した動きだけになっているのであれば、問題であるとの認識を持っています。
良く言う企業によるスクラップ&ビルト戦略を助長し促進する出しにSDGsが利用されているだけでは問題なのです。これでは持続可能が優先されるのは企業であり財界であり、国家中心体制が生き延びるだけで、市民はいつまでも置き去りにされる未来になると考えています。
SDGsの理念は、目標となる・あるべき未来の市民社会の姿が描かれており、社会の主要構成員の市民も企業や財界や中央官庁と対等な立場でこの理念の実現化を目指し、貢献していくべきと思っております。Sustainable Development “designed & empowered by citizen” Goalsの存在も必要だと感じております。
SDGsの考え方の柱の一つに“誰ひとり置き去りにしない”という視点がある。市民がより積極的にSDGsに関わるかどうかが未来の姿がどうなるかに係ってくると考えております。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
yo-chan