一連のオーム事件の主犯とされた麻原彰晃他6人が死刑を執行された。事件からすでに25年近く、四半世紀近い歳月が過ぎている。わたしたちには、事件の記憶は鮮明に残っているが、若い人にはそれこそ歴史の範疇に入る事件だろう。「日本にもテロ事件があったんだね」程度の認識に違いない。
“時の流れ”というものは残酷なもので、その時を生きた人間にとっては今そこにある問題のように思えても、その全てを容赦なく歴史の彼方に押し流してしまう。オーム事件の被害者、関係者たちもこの時の流れの無残さを噛みしめているように思えて仕方がない。
しかし、今回の死刑執行は、そのような感傷を吹き飛ばすきわめて重大な問題をわたしたちに投げかけている。
まず、一度に7人という大量の死刑執行を行ったのは、明治以降では、【大逆事件】以来ない。戦後の日本の歴史ではない。(※米軍がA級戦犯を処刑した以外)
こんな歴史的で重大な決定を下した上川法務大臣には、歴史の審判に耐えうる覚悟はあるのだろうか。同時に一人の人間として7人の命を奪う事に対する良心の呵責はないのだろうか。現に死刑廃止を導入しているEU各国は、この死刑執行について厳重な抗議を行っている。
先日、BBCが特集を放映した伊藤詩織さんの準強姦事件(日本でのネット放映は即座に削除された)と並んで麻原彰晃などの死刑執行も大々的に放送されている。
日本は女性の人権など「人権感覚」のきわめて薄い国だという評価が定着し始めている。特に、伊藤詩織さんの事件に対して、自民党の若手女性議員が「伊藤さんの手落ち」を責める発言をしたのがBBCの放送で放映され、日本に住む外国人女性たちが日本でレイプされたら、女性の支援すら得られないと語り、日本及び日本人の人権感覚に重大な疑問符を突きつけている。
たしかにオーム事件の首謀者麻原彰晃たちの行った数々の犯罪は、テロと呼ぶにふさわしい卑劣な犯罪であり、彼らが法の裁きを受けるのは当然だ。しかし、どんな犯罪者でも一人の人間であることも厳然たる事実。それぞれの人間に親もいれば兄弟もいる。その人間の命を奪う決定を下すのである。わたしなら、夜も眠れないほど悩み苦しむ。
「本当に自分の判断は間違っていないのだろうか。」わたしなら、死刑の執行を下す人間の犯行を詳細に点検し判断する。それでも、一人の人間の命を奪う決定を下すまで思い悩み、苦しみぬくだろう。
「子連れ狼」の拝一刀は公儀介錯人。多くの咎人の首をはねた。彼は庭にお堂を立て、自分が介錯した咎人の位牌を飾り、供養を欠かさなかった。漫画の世界ではあるが、これが日本人の死者に対する姿勢。人間、死ねばみな仏。死んでまで悪魔の人間はいない。
わたしは教師だったので、問題児の処遇で、人には語れないほど悩み苦しんだ。どの処遇をすればこの子の将来に一番良い影響を齎すか。それこそ、眠れない夜が何日も続いた。
ましてや、人の命を奪う決定をするのである。それも一人ではない。7人である。その悩み、苦しみはわたしの苦しみの比ではない。わたしはそう考えていた。
ところが上川法相の記者会見を見ていたら、わたしには彼女の悩み苦しみが見えなかった。前夜、彼女はぐっすり眠れたのだろうか、と考えていたが、どうやらそれはわたしの杞憂だったようだ。
次のブログに掲載されている写真を見てほしい。7月5日夜、安倍首相はじめ上川法相などが、宴会をしている写真である。西日本を未曾有の大雨が襲うと報道された夜。そしてオームの7人が死刑を執行される前夜である。
http://www.asyura2.com/18/senkyo247/msg/431.html
宴会をするのが悪いのではない。何事にもTPOがある。西日本を襲った豪雨は、想像をはるかに超えた猛威を振るった。全国的に見ても災害の少ないわたしの県でも、何十年ぶりの大きな被害を受けた。特に倉敷市真備町の被害は甚大で、復興には大変な時間とお金と労力がかかるだろう。
・・余談ですが、TVではあまり紹介されない真備町の説明を多少すれば、この町は古代吉備王国の一翼を担った歴史の古い町で、「吉備真備」の生誕の地。真備町の名前も吉備真備から取っている。
今回甚大な被害を受けている箭田地区には、箭田大塚古墳という有名な古墳があり、その横穴の大きさは、飛鳥地方の大古墳に匹敵する大きさを誇っています。わたしは近くの中学校で教鞭をとっていたので、自転車で子供たちを連れて見学に出かけたものです。
それと、真備のタケノコと称されるタケノコの名産地でもあります。箭田という名前を見てもらえば分かるように、文字通り竹の前という意味です。古来からそれだけ竹が有名だったのです。エジソンが電球を造るのに、日本の竹を使用したのはよく知られていますが、京都の嵯峨野の竹と最後まで争ったのが真備の竹だったのです。
以前は、長閑な田園地帯が広がった町でしたが、近年は、倉敷のベッドタウンとして急速に都市化が進んでおり、住民の数も増加しており、今回の被害住民の多さの一因でもあります。・・
このような歴史と伝統のある町が大変な被害にあった。多くの人々や住民の思いも長い歴史も奪われる大災害。為政者は、何はさておいても、問題の解決に全力で取り組むべきだろう。被災者の救出。被害規模の調査。復興計画の策定、実行。全国規模でやらなければならない事は山ほどある。やっと今日になって、政府は「激甚災害」の指定をしたようだ。
気象庁があれだけの予測を出し、国民に語り掛けたのである。行政の長である首相が、その発表のあった夜に宴会でオダを上げていては、しめしがつかない。まして、安倍内閣は、「国土強靭化計画」なる目玉政策を打ち出していたはず。なにはさておいても、このような大災害の場合に、陣頭指揮をとらなければ、国土強靭化の言葉が泣いている。
また翌日は、オーム事件の関係者7人の死刑執行するのである。たとえ格好だけでも法務大臣は私邸にこもり、自らが奪う命の重さに思いをはせるべきだろう。
ところが、この内閣は、そういう事に思いが及ばない。「人間性喪失」内閣と言われても仕方がない。
以前、「公」・「公共」・「私」の違いを書いた事がある。この中で【公共】という概念は、社会を成り立たせている常識(コモンセンス)という色合いが強いと書いた。イギリスには成文憲法はない。あるのは不文憲法である。イギリスでは、常識に沿って場合に応じて決定されるのである。それだけ、彼らは長い歴史の中で培われた自らの常識(コモンセンス)を信じている。
ウィキペディア「イギリスの憲法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%86%B2%E6%B3%95
ところが、安倍内閣には、社会の【常識】(コモンセンス)という概念がないのではないか、と思える。彼らは歴史に対する敬意がない。多くの先人たちが積み重ねてきた【常識】(社会の常識だけでなく、議会の常識も)に対する尊敬の気持ちもない。彼らにあるのは、目の前に見える事柄だけであり、【今】しかなく、思考の原点は【公と私】だけ。ファッショ政権(独裁政権)特有の【私=公】という妄想で行動している。
・・8日午後6時現在、広島や愛媛、岡山など西日本を中心に全国で78人が死亡し、5人が心肺停止、安否不明者は70人に上っている。(毎日新聞)・・
これだけの大災害にも関わらず非常災害対策本部の立ち上げは、気象庁予測の3日後。その時の首相の台詞が、「災害は、時間との戦いで先手先手の対策をうつ」というのだから笑わせる。ちなみにその間の安倍首相の動静。
・・・安倍「時間との戦い、全力」
7/5 西日本豪雨
20:28 死刑前夜祭の宴会
21:38 自宅
7/6 劇場型死刑7名
7/7 10:01-10:16 大雨に関する閣僚会議
11:49 自宅
7/8 豪雨死者不明100名超
9:02-9:22 非常災害対策本部会議
9:48-10:42 米国務長官表敬
13:00-13:23 韓国外相表敬
14:29 自宅
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7/11~7/18 外遊
まあ、首相の頭の中は、フランス革命記念日の軍事パレードをマクロン首相と特別席で見る事に占領されているのだろう。
・・・エマニュエル・マクロン大統領は #日仏交流160周年 を記念して、7月14日のフランス革命記念日にパリで行われる軍事パレードに日本を招待しました。安倍晋三 @AbeShinzo 首相はマクロン大統領と並んで特別席から観覧します。また日本の陸上自衛隊員も国を代表して行進します。
https://jp.ambafrance.org/article13300
「在日フランス大使館」16:20 - 2018年7月5日 ・・・・
●大方の批判を受けたせいだろう。どうやらこの外遊は取りやめたそうだ。
これらの事実をつなぎ合わせると、今回のオーム事件の死刑執行、西日本の豪雨災害のいずれも、安倍晋三内閣の宸襟を悩ます問題ではない、と言う事が類推できる。極端に言うと、犯罪者の命やそのあたりの国民の命などどうでもよいと考えている。彼らの命など「消耗品」で、いつでも替えが利く。それより俺たちの宴会の方がはるかに大切。この宴会は総裁選での一票獲得の大切な機会。これを逃してなるものか、というわけである。
オームの死刑執行で重要なのは、いかにこれを政治利用するか、という視点で、それ以上でもそれ以下でもない。ここで示されているのは、「政治の私物化」以外の何物でもない。一言で言うと、独裁者の姿勢。
わたしは今回のオーム事件の死刑執行を見ていて、ペルーの「日本大使館占拠事件」を思い出した。ペルー政府側が、大使館に強行突入し、犯人たちを殺害した。その後、大使館に入ったフジモリ大統領は、殺害されたテロリストたちの死体を階段の上から傲然と見下ろしていた。勝利者が敗者を見下ろすもので、その冷酷な表情に背筋がゾクッとしたのを思い出した。フジモリ大統領という人物は、骨の髄からの権力者だと言う事を思い知らされた。
「独裁的権力者」の象徴的姿がその時のフジモリ大統領の姿から読み取れる。つまり、自分に敵対する人間を徹底的に排除する、究極的には殺害してしまう、これが独裁的権力者の本質だと思う。
今回の7人に及ぶオーム事件死刑囚の死刑執行は、政治的敵対者の抹殺ではないが、社会的批判を一身に浴びた人間たちを政治利用して死刑執行をしても何ら精神的痛痒を感じないという点では見事に共通点がある。
以前にも書いたが、これは日本が【階級社会】に突入したことの証左でもある。支配階級が被支配階級を残酷に理不尽に支配するという「支配の論理」の貫徹が、このオーム死刑囚の死刑執行と西日本豪雨災害の対応に如実に示されている。
平成の時代が今年いっぱいで終わりを告げる。次の時代の始まりには、通常「恩赦」が行われる。オーム事件の犯人たちをこの「恩赦」にしたくない、という意味と、「平成」の事件は「平成」で終わらせる、という法務当局の意志の表れであろう。
法務当局の考える「法の支配」とは、弱者に対する法の適用の冷厳さである。あくまでも、彼らの考える社会の秩序維持の姿勢の誇示。ありとあらゆる人間的感情の彼方に「法の適用」があるという法務当局の考える「法の支配」の冷たくて揺るぎない意志が示されている。
西日本豪雨災害の対応の遅れは、安倍政権中枢幹部の脳裏に「国民の生活」などはないと言う事を意味している。彼らの発想からすれば、国民に対する施策は、国民に対する「施し」であり、恩恵であっても、義務ではない。「施し」なのだから、こちらの思い通りにして何が悪い。それを政府の義務だとか国民の権利などと主張する面倒な輩は、全て【赤】。戦前なら、「主義者=赤」として、全て逮捕。裁判などなしに刑務所送りして、拷問で痛めつけ、排除する。こうすれば、俺たちの思い通りの政治ができる、というわけである。
これが安倍首相の言う「美しい国」の正体である。
多くの心ある国民はこのような政治状況に苛立ちを隠せない。政治を見れば見るほど自らの無力感に苛まされる。一体どこに突破口があるのだと。このような状況を【時代の閉塞状況】と呼ぶ。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水