山本太郎が面白い。単身、権力に挑む姿勢が多くの人の共感を呼んでいる。彼が全国で展開している街頭演説に多くの聴衆が集まり、わずかの期間で2億円近い寄付金を集めている。
山本太郎という人物。毀誉褒貶の激しい男。政界一と言って良いかもしれない。彼を支持するにしろ、敵対視するにしろ、みな熱くなる。こういう男は珍しい。カリスマ性があると言わざるを得ない。
とりあえず、今回の参議院選挙での彼の公約を見てみよう。
「れいわ新選組」の選挙公約
① 消費税は廃止
② 最低賃金1500円、政府が補償
③ 奨学金徳政令
④ 公務員を増やす
⑤ 一次産業戸別所得補償
⑥ 「トンデモ法」一括見直し・廃止
⑦ 辺野古基地建設中止
⑧ 原発即時廃止・被爆させない
山本太郎の特色は、経済政策に重点を置いている点にある。特に、消費税廃止の政策は出色。
例えば、消費税10%の実施を求めた連合に対して、「国民生活を苦しめる法案の完全実施を求める労働組合など、どこが国民の味方なのか」と一蹴。消費税10%実施をいまだに頑なに主張する野田元首相を【財務省の代弁者】と切って捨てる。
この発言を聞くと、彼は野党なのか、と訝る人もいるかもしれない。ひょっとしたら、左派やリベラルが嫌いなのか、と考える人も出るだろう。
そういう憶測を呼びかねないのが、アエラで書かれた「安倍内閣に財務大臣を要請されたら受けるかもしれない」という発言である。
実は、山本太郎の真骨頂は、誤解を受けかねないこの発言にある。彼は、リアリストで、政治は、権力を握らなければ何もできないと考えている。だから、財務大臣という日本の権力の中枢に就任できるのなら、安倍政権に入っても良い、と考える。
ただし、財務大臣として自分の考える財政政策を徹底的に実現するために就任するというエクスキューズがつく。彼に言わせれば、即座に解任されるだろう、と言う事になる。
一つは彼の時代認識と思想にある。彼は現代と言う時代の問題点は、右とか左と言う横の問題にはない、と考えている。彼は現代は、上下の関係にあると考えている。富裕層と貧困層、支配層と被支配層の上下の関係で現代を切り取っている。
以前から、わたしは現代資本主義は、資本主義の当初の時代に先祖返りしていると主張してきた。つまり、資本家と労働者、搾取階級と搾取される階級、支配階級と被支配階級という縦(上下)の関係が鮮明になってきていると主張してきた。
ケインズ以来の修正資本主義は、社会の縦関係を薄め、横関係にシフトするための資本の側の知恵だった。新自由主義経済論は、この横関係重視の修正資本主義理論を縦(上下)関係重視の当初の資本主義に先祖返りさせているのである。
山本太郎の認識は、この認識に近い。だから、右派だろうが左派だろうが、上下関係で認識し、上から目線の発想には噛みついている。
彼の描いている政治家像はきわめてシンプル。自らの考える政策を実現するために存在するのが政治家。そのために、全身全霊を傾けなければならない。自らの生き残りだけを考えるような政治家は必要ないと考えている。
山本太郎は、1%の側でなく、99%の側に身を置くことを政治信条にしている。彼流の時代認識で言えば、【下】の側に身を置くことを決意している。その為になる事なら、どんな事でもやると決めている。一言で言えば、【本気】だと言う事。この本気さが人を集める。
日本の大人の知恵(世間知)から言えば、それこそ【青臭い】。そんな風に世の中は出来ていない、と一蹴されるのがおち。
しかし、そういう世故長けた政治家だけが生き延びている政治に夢が持てるだろうか。国民の政治的無関心(アパシー)の最大の要因は、世故長けた政治家どもの言説を信じられないという想いを拭いきれないからである。
山本太郎は違う。格差が開く一方の日本の現状。政治の私物化に狂奔する安倍政権の政治家・官僚どもの腐敗ぶり。その一方で明日の飯にも困る多くの国民の存在。多くの若者たちが結婚もできず、将来の夢すら奪われている。
山本太郎は、この現状をもう我慢できない、と叫ぶ。もう待てないと叫ぶ。俺たちが立ち上がらなければ誰が立ち上がるのだと叫ぶ。彼は、自らの思いのたけを吐き出し、若者たちに語り掛けている。“これで良いのか”と。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
幕末の勤皇の志士、平野國臣が詠んだ句。
※平野國臣
福岡藩出身。幕末の尊王攘夷運動の理論的指導者の1人。薩摩藩での説得に失敗。薩摩藩を退去せざるを得なかった時に読んだ句。36歳で刑死。
https://bakumatsu.org/men/view/214
平野國臣の思想云々はさておき、彼は自らの信念に殉じ、36歳の短い人生を駆け抜けている。
山本太郎という人間を見ていると、はち切れんばかりに膨れ上がった「わが胸の もゆる想い」を実現するために、たった一人で孤独の戦いを挑んでいるように見える。
全共闘運動が華やかだった時代、東大キャンパスに秀逸な立て看板が立った。【連帯を求めて孤立を恐れず!】というキャッチコピーは、当時の学生たちの合言葉だった。
さらに、東大安田講堂に警官隊が突入する前、当時人気があった高倉健のやくざ映画をもじって、「とめてくれるな/ おっかさん/背中の銀杏が /泣いている」という立て看板が立った。
https://dawase86.exblog.jp/10611485/
山本太郎の戦いは、【連帯を求めて 孤立を恐れず】という東大全共闘の戦いを彷彿とさせる。
さらに言えば、田中正造という人物も思い出させる。田中正造は足尾鉱毒事件で孤独の戦いを展開し、天皇に直訴した人物として知られている。山本も園遊会で天皇に手紙を渡し、物議をかもしている。
※田中正造
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
※足尾鉱毒事件
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6
田中正造と足尾鉱毒事件
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo40_39.html
田中正造は、切腹を覚悟して、天皇に直訴した。彼は中流の地主の子供として生を受けたが、彼が死去した時には、一銭の財産も残っていなかった。文字通り、足尾鉱毒事件の解決のため、全財産も自らの生命すら失っても悔いなしの想いで戦い続けた。
山本太郎が、これらの歴史上の人物や事件に匹敵する何かを成し遂げるかどうかは分からないが、彼の行為はこれらの系譜に準ずるものである事は確かだろう。
だから、彼の街頭演説には、人が集まる。「なんで、山本太郎の演説は人を引き付けるのか」と久米宏が語っていたが、その秘密は彼の【本気さ】だろう。
前の選挙の時、立憲民主党の枝野幸男の孤独な戦いに多くの国民が共感し、立憲民主党は勝利した。あの時の枝野幸男には、人生を賭けた迫力があった。今の枝野にはそれがない。立憲民主党の問題はその一点にかかっている。
それに比べ、山本太郎には、【本気さ】も人生を賭ける【迫力】もある。同時に、「政治は権力」というリアリズムも持ち合わせている。
もう一つ重要な点がある。「れいわ新選組」というネーミングに象徴されるような【だささ】がある。東大闘争の洗練さと比較すれば、「れいわ新選組」はいかにもださい。【だささ】というのは、もろ刃の剣だが、山本太郎の場合、「だささ」が人々を引き付ける要件かもしれない。ひょっとしたら大化けするかも知れない、という期待感を抱かせる。
同時に政治という世界は、欲望に取り付かれた権力亡者どもの集合体である。むき出しの欲望と私益のためには、裏切りなど日常茶飯事。権力を握ると言う事は、そんな彼らをうまく御する事と同義。一人で突っ走って成功する見込みはない。山本太郎の危惧される点は、これに尽きる。平野流の溢れる思いだけで成功する保証は皆無だろう。
政治力とは、こういう連中の人心掌握をする生臭さが重要。汚れる事を恐れては何もできない。
わたしは山本太郎にステンレスになれと勧めたい。どんな汚れの中にいても、水で洗えば、前と同じピカピカ。権力を握るとはそういう事である。汚れを拒否すれば、ただのドン・キホーテである。
小沢一郎の凄さはそこにあると認識しなくてはならない。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水