花森安治の「一銭五厘の旗」は、以前、老人党掲示板で紹介した事がある。1970年に『暮らしの手帖』に書かれたこの詩は、平成の今、読んでも色あせないばかりか、ますますその輝きを増している。
何故なのか。
花森の戦争への真摯な反省と、時代を切り取る鋭敏な感性が合わさって、このようなとぎすまされた詩が生まれたのだろう。花森の一言一言が、時代の本質を見事に切り取っていたからこそ、ますます光り輝いて見えるのであろう。
「一銭五厘の旗」は非常に長い詩なので、興味のある方は、以下のサイトでご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/2bf9251e3d3d5ebe04e10ab356c111ed
(前略)・・
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
・・・(中略)・・・
毎日毎晩空襲に怯え、防空壕に入り、焼夷弾から逃げまどった昨日までが、まるでうそのようだった、という花森の感性は良く分かる。「へらへらわらうと 涙がでてきた」・・・生きるの死ぬのと大騒ぎをし、緊張しっぱなしの日常から解放された安ど感を見事に表現している。御大層な事を言っても、人間なんて所詮そんな上等の生き物ではないのだ、と言っている。
・・・(中略)・・・
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
・・・・・
花森は、敗戦の概念を「たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった」「たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった」「生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ」と捉える。
花森のこの感性は素晴らしい。戦前は、曲がりなりにもインテリとして生きてきたであろう花森が、戦後反戦の旗印を最後まで掲げ続けられたのは、こういう素朴な日常に感動する感性の持ち主だったからであろう。だから、彼は、「戦争のないことは すばらしかった」と素直に表現できた。
・・(中略)・・
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ とどなられながら
一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
・・(中略)・・
花森の怒りは、戦争中の上官・軍隊・社会のしくみなど全てに向けられる。中でも、「一銭五厘」でいくらでも代わりが来ると言われ続けたように、人の命を虫けらのように扱う軍隊や上官のありように、花森の怒りは向けられる。そして、いつの世でも「一銭五厘」の運命にさらされるのは、<庶民>ぼくらだ 君らだ、と叫ぶ。二度と決して「一銭五厘」の命になってはいけないと叫んでいる。
平成の世の今現在、「お前たちの命は一銭五厘だ。かわりはいくらでもいる」と叫んだ上官と同じ感性の持ち主を見る事ができる。沖縄高江に派遣された大阪府警の機動隊隊員が反対住民に浴びせかけた【土人が】と言う言葉、「お前たちの命は一銭五厘」とさげすんだ上官と全く同じ感性である。
そして、そう蔑んだ上官も同じ「一銭五厘」の赤紙で招集された人間。【土人が】と蔑んだ人間も時の権力に利用され、権力に都合が悪ければ、今回のように処罰される弱い立場の人間。要するに弱い立場同士の人間が、お互いにののしり合い、憎みあい、蔑み合う。隣組の理不尽な同調圧力に泣いた戦前と全く同じ光景が繰り返されているのである。
そして、戦前と現在まで通底しているのは、【権力との距離】によって、人を判断し、区別し、差別するという悲しい人間の性は変わらない、という事実である。権力に近い場所にいる人間ほど偉い、というどうしようもない理不尽な現実がある。【分断して支配せよ】という支配の要諦は、この悲しい人間の性に基づいている。
花森は、1970年当時、日本の未来に深刻な危機感を抱いていた。戦後日本の微妙な方針転換を肌で感じていた。
・・・(中略)・・・
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして ぼくらを もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは
家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう
といった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と
総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を
打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓には
いろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた・・・
花森の筆は、戦後の民主主義の一瞬の輝きを正確に捉えていた。わたしは今でも村の村長や村会議員とわたしたち中学生との話し合いの場面を鮮明に記憶している。たしか昭和34年だった。その時、わたしたち中学生は、何故村会議員は、物事を議会で決定しないのか。何故宴会の場で決めるのか、と責めたてた記憶がある。村で唯一の料亭の息子から、宴会の場で物事が決められているのを聞いていたからである。村長や村会議員は釈明に追われていたが、当時はそれが民主主義だと考えられていた。
それは一瞬の光芒だったかもしれないが、戦後たしかにこんな風に民主主義が光り輝いていた時代もあった。
・・・(中略)・・
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれたきりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
・・・・・・
「もはや戦後ではない」と言う言葉があった。「戦後」という言葉には様々な意味が込められていた。現在から見て確かに言える事は、支配側(特に自民党・財界・官僚)から見た戦後は、【民主主義を錦の御旗にして、国民が文句を言い、権利を主張し、思い通りに物事を運べない面倒な】時代だという認識があった事である。彼らに取って、「もはや戦後ではない」という意味は、「もはや戦後民主主義ではない」という意味と同義だったのだと思う。花森も同様な事を痛切に感じていたのであろう。
・・・(中略)・・・
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
・・・・・・
この花森の怒りは、今も新しい。安倍晋三とその取り巻きども。全く言う(湯)ばかり)。証券会社は救うが、一個人は救わない。それは、もっと酷くなり、今や1%の利益にために、99%の国民の利益は切り捨てられる時代である。
最後に花森は以下のように書き、戦前とは違う「一銭五厘」の人間たちの決意を述べる。
・・・(中略)・・
ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない・・・・・
昨年、SEALDsに結集した学生たちや若者たち、多くの市民たちを彷彿とさせる宣言である。
花森安治は色あせてない。否。ますます輝いている。わたしたち市民は、老いも若きもそれぞれの旗を立て、節度を失い、物事が見えなくなった支配権力にNOをつきつけなければならない。花森ではないが、二度とふたたびう後悔しないために。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
何故なのか。
花森の戦争への真摯な反省と、時代を切り取る鋭敏な感性が合わさって、このようなとぎすまされた詩が生まれたのだろう。花森の一言一言が、時代の本質を見事に切り取っていたからこそ、ますます光り輝いて見えるのであろう。
「一銭五厘の旗」は非常に長い詩なので、興味のある方は、以下のサイトでご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/2bf9251e3d3d5ebe04e10ab356c111ed
(前略)・・
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
・・・(中略)・・・
毎日毎晩空襲に怯え、防空壕に入り、焼夷弾から逃げまどった昨日までが、まるでうそのようだった、という花森の感性は良く分かる。「へらへらわらうと 涙がでてきた」・・・生きるの死ぬのと大騒ぎをし、緊張しっぱなしの日常から解放された安ど感を見事に表現している。御大層な事を言っても、人間なんて所詮そんな上等の生き物ではないのだ、と言っている。
・・・(中略)・・・
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
・・・・・
花森は、敗戦の概念を「たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった」「たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった」「生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ」と捉える。
花森のこの感性は素晴らしい。戦前は、曲がりなりにもインテリとして生きてきたであろう花森が、戦後反戦の旗印を最後まで掲げ続けられたのは、こういう素朴な日常に感動する感性の持ち主だったからであろう。だから、彼は、「戦争のないことは すばらしかった」と素直に表現できた。
・・(中略)・・
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ とどなられながら
一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
・・(中略)・・
花森の怒りは、戦争中の上官・軍隊・社会のしくみなど全てに向けられる。中でも、「一銭五厘」でいくらでも代わりが来ると言われ続けたように、人の命を虫けらのように扱う軍隊や上官のありように、花森の怒りは向けられる。そして、いつの世でも「一銭五厘」の運命にさらされるのは、<庶民>ぼくらだ 君らだ、と叫ぶ。二度と決して「一銭五厘」の命になってはいけないと叫んでいる。
平成の世の今現在、「お前たちの命は一銭五厘だ。かわりはいくらでもいる」と叫んだ上官と同じ感性の持ち主を見る事ができる。沖縄高江に派遣された大阪府警の機動隊隊員が反対住民に浴びせかけた【土人が】と言う言葉、「お前たちの命は一銭五厘」とさげすんだ上官と全く同じ感性である。
そして、そう蔑んだ上官も同じ「一銭五厘」の赤紙で招集された人間。【土人が】と蔑んだ人間も時の権力に利用され、権力に都合が悪ければ、今回のように処罰される弱い立場の人間。要するに弱い立場同士の人間が、お互いにののしり合い、憎みあい、蔑み合う。隣組の理不尽な同調圧力に泣いた戦前と全く同じ光景が繰り返されているのである。
そして、戦前と現在まで通底しているのは、【権力との距離】によって、人を判断し、区別し、差別するという悲しい人間の性は変わらない、という事実である。権力に近い場所にいる人間ほど偉い、というどうしようもない理不尽な現実がある。【分断して支配せよ】という支配の要諦は、この悲しい人間の性に基づいている。
花森は、1970年当時、日本の未来に深刻な危機感を抱いていた。戦後日本の微妙な方針転換を肌で感じていた。
・・・(中略)・・・
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして ぼくらを もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは
家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう
といった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と
総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を
打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓には
いろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた・・・
花森の筆は、戦後の民主主義の一瞬の輝きを正確に捉えていた。わたしは今でも村の村長や村会議員とわたしたち中学生との話し合いの場面を鮮明に記憶している。たしか昭和34年だった。その時、わたしたち中学生は、何故村会議員は、物事を議会で決定しないのか。何故宴会の場で決めるのか、と責めたてた記憶がある。村で唯一の料亭の息子から、宴会の場で物事が決められているのを聞いていたからである。村長や村会議員は釈明に追われていたが、当時はそれが民主主義だと考えられていた。
それは一瞬の光芒だったかもしれないが、戦後たしかにこんな風に民主主義が光り輝いていた時代もあった。
・・・(中略)・・
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれたきりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
・・・・・・
「もはや戦後ではない」と言う言葉があった。「戦後」という言葉には様々な意味が込められていた。現在から見て確かに言える事は、支配側(特に自民党・財界・官僚)から見た戦後は、【民主主義を錦の御旗にして、国民が文句を言い、権利を主張し、思い通りに物事を運べない面倒な】時代だという認識があった事である。彼らに取って、「もはや戦後ではない」という意味は、「もはや戦後民主主義ではない」という意味と同義だったのだと思う。花森も同様な事を痛切に感じていたのであろう。
・・・(中略)・・・
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
・・・・・・
この花森の怒りは、今も新しい。安倍晋三とその取り巻きども。全く言う(湯)ばかり)。証券会社は救うが、一個人は救わない。それは、もっと酷くなり、今や1%の利益にために、99%の国民の利益は切り捨てられる時代である。
最後に花森は以下のように書き、戦前とは違う「一銭五厘」の人間たちの決意を述べる。
・・・(中略)・・
ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない・・・・・
昨年、SEALDsに結集した学生たちや若者たち、多くの市民たちを彷彿とさせる宣言である。
花森安治は色あせてない。否。ますます輝いている。わたしたち市民は、老いも若きもそれぞれの旗を立て、節度を失い、物事が見えなくなった支配権力にNOをつきつけなければならない。花森ではないが、二度とふたたびう後悔しないために。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
