日本的集団主義が「終焉している」ので現在のような全体主義的な政治(社会)になっていると言わんばかりの三谷説や小熊説が「流行」しているようであるが、(実際に二人の著書を検討していないので実のところ、私には不明である。今後の検討材料としたい)なぜか。それはこの二人の見解がこれまでの学問的な蓄積と論理を踏まえていないからであると考える。
「予告」では、日本的集団主義を学問的に解明していた研究者は三人であると言っておいた。丸山真男、加藤周一、網野善彦の三者である。
ところが、この学究亡きあと、この三者の論理を続けて、あるいはさらに「新たな視覚」から、学問を切り開いた学究がいた。西欧中世史の研究者である阿部謹也氏である。
阿部氏は西欧中世史の最高峰にいる学者であるが、主に近代日本の歴史的位相に注目して、日本の社会が西欧近代の思想を受け継いだものの、西欧近代の基底にある「市民社会」は受け継いでおらず、近代(つまり明治時代)以前から存在していた「世間」という伝統的な集団と意識を頑強に残存させていると明らかにする。
そして、近代以降の「日本」では、建前では西欧起源である権利意識や個人主義的な観念(戦後では「基本的人権」と呼ぶことになった)を表明するが、それは学校などの公的な場所に限られている。実際になにか人権問題が起きた場合には「建前」の権利意識ではなく、「本音」としての集団意識が全面に出てくると言うのだ。これが「世間」という伝統であり、現代でも間違いなく根強く存在していると言う。
この阿部氏の20年に及ぶ研究「世間論」を私は20年前から熟読してきた。実際、30年前に阿部氏の講演も聴いている。そして、実際にこの10年の間に一つでも阿部氏の主張を覆すようなエピソードとかケース(事例)に日本社会で私たちは「出会って来た」だろうか。否である。
学校でのいじめによる自殺事件は少しも減少していないばかりか、昨日のニュースでも明らかなように、教育長が自殺した中学生の父親に向かって「お前も来るのか」と言っているのはどうだろう。また、相変わらず、学校の管理職は自殺した子供がいても、「いじめ」の事実はなかったといっている。(いい加減にしろよ!)そして、最近でも児童相談所は幼児虐待の「通報」を受けても知らん顔で「幼い命」がいつも奪われているのが実態なのである。
これらの周辺的な事件も重要であるが(当事者はたまったものではない)、安倍政権の問題にも焦点を当てたい。
三谷氏や小熊氏が主張するように、本当に「集団主義」が終焉したので現在の政治的な状況(明らかな全体主義への傾斜)が起きているのだとすれば、それはそれで結構なことと思われる。しかし、問題は逆であろう。
確かに集団主義はある側面では衰退している。それはポジティブな側面の集団主義である。丸山氏が言う「悔恨共同体」的な側面であり、敗戦によるショックから立ち直り、平和な日本を建設するべく戦後復興を遂げ、「高度成長」を成し遂げた原動力も、団結した労働運動などの「集団主義」であった。
だが、中曽根政権の時に企業横断的な労働組合は「民営化」の名のもとに潰されたのである。今は、企業内労働組合さえも衰退して組織率は30パーセントを割っている。
その隙間を突いて登場したのが「ブラック企業」である。ブラック企業という言い方は適当ではない従来の企業がブラック化したり、今までの企業が衰退している横から新しく登場したブラック企業もあるだろう。
安倍政権はこの事態を防止するどころか、ブラック企業を助けているような労働政策(「働き方改革」)を打ち出したのである。この改革は明らかに長時間労働の弊害をなくすどころか「長時間労働」を拡大するものであった。それも残業代もゼロにして。
つまり、集団主義のプラス面は「終焉」させられたが、マイナス面は「肥大化」しているのである。
丸山氏の論理(それと丸山氏を継承し発展させた阿部氏の論理)に戻ろう。丸山氏は戦後に発表した論稿で、主に日本の軍隊や軍事政権を分析して「無責任の体系」を明らかにした。つまり、起こった事態に対して責任の所在は誰にもなく、特定の個人が責任を取るシステムではないというのである。
これは西欧の個人主義的な体系を、建前はともかく、「本音」では摂っていないので当然の帰結だろう。権利が保障されていないところには責任も存在していないからである。分かりやすく言えば、報酬がない者に責任だけを負担しろと言うのは土台無理な話である。「権利」という翻訳語には実質もない訳語である。欧米語ではライト(RIGHT)なので、「正義」とか「公正」とかが中心的な言葉であり、「利益」というのは二の次である。
ライトが保障されていない「集団」(阿部氏の言う「世間」)で、そこの個人に対して「責任」だけはお前にあると言われても、困惑するだけである。こうした集団主義が支配する社会でそのポジティブな側面が衰退して、ネガティブな側面だけになった場合に「全体主義」が顔を出すのである。
それを丸山氏が「無責任の体系」として分析されたのである。そして、阿部氏は『世間論』でこの丸山氏の論理を発展させて「世間」という伝統的な日本の集団主義の母体を論理的に展開されたのである。
しかし、阿部氏は最後の章(阿部謹也『近代化と世間』)では西欧思想の限界にも言及している。今度国連が採択した「核兵器禁止条約」を先取りしたような主張であった。
つまり、西欧思想の発展の果てに出てきた近代科学は軍事面だけが偏重されて、とうとう核兵器まで開発され、(広島、長崎の原爆投下は実際に起こってしまい、)戦後も核兵器やその他の大量殺傷兵器も拡大再生産されている。これは直ちに廃棄する方向に行かないと危ないと警鐘を鳴らしているのである。
こうして見ると西欧思想とその派生態である科学も「無責任」の様相を示していることは明らかである。
阿部氏は日本の伝統的な「歴史」(世間論)と西欧思想の行き詰まりにも対応した議論をされて、阿部氏の結論を示唆されている。(それについては阿部氏の議論を直接検討することを望む。)
「護憲+コラム」より
名無しの探偵
「予告」では、日本的集団主義を学問的に解明していた研究者は三人であると言っておいた。丸山真男、加藤周一、網野善彦の三者である。
ところが、この学究亡きあと、この三者の論理を続けて、あるいはさらに「新たな視覚」から、学問を切り開いた学究がいた。西欧中世史の研究者である阿部謹也氏である。
阿部氏は西欧中世史の最高峰にいる学者であるが、主に近代日本の歴史的位相に注目して、日本の社会が西欧近代の思想を受け継いだものの、西欧近代の基底にある「市民社会」は受け継いでおらず、近代(つまり明治時代)以前から存在していた「世間」という伝統的な集団と意識を頑強に残存させていると明らかにする。
そして、近代以降の「日本」では、建前では西欧起源である権利意識や個人主義的な観念(戦後では「基本的人権」と呼ぶことになった)を表明するが、それは学校などの公的な場所に限られている。実際になにか人権問題が起きた場合には「建前」の権利意識ではなく、「本音」としての集団意識が全面に出てくると言うのだ。これが「世間」という伝統であり、現代でも間違いなく根強く存在していると言う。
この阿部氏の20年に及ぶ研究「世間論」を私は20年前から熟読してきた。実際、30年前に阿部氏の講演も聴いている。そして、実際にこの10年の間に一つでも阿部氏の主張を覆すようなエピソードとかケース(事例)に日本社会で私たちは「出会って来た」だろうか。否である。
学校でのいじめによる自殺事件は少しも減少していないばかりか、昨日のニュースでも明らかなように、教育長が自殺した中学生の父親に向かって「お前も来るのか」と言っているのはどうだろう。また、相変わらず、学校の管理職は自殺した子供がいても、「いじめ」の事実はなかったといっている。(いい加減にしろよ!)そして、最近でも児童相談所は幼児虐待の「通報」を受けても知らん顔で「幼い命」がいつも奪われているのが実態なのである。
これらの周辺的な事件も重要であるが(当事者はたまったものではない)、安倍政権の問題にも焦点を当てたい。
三谷氏や小熊氏が主張するように、本当に「集団主義」が終焉したので現在の政治的な状況(明らかな全体主義への傾斜)が起きているのだとすれば、それはそれで結構なことと思われる。しかし、問題は逆であろう。
確かに集団主義はある側面では衰退している。それはポジティブな側面の集団主義である。丸山氏が言う「悔恨共同体」的な側面であり、敗戦によるショックから立ち直り、平和な日本を建設するべく戦後復興を遂げ、「高度成長」を成し遂げた原動力も、団結した労働運動などの「集団主義」であった。
だが、中曽根政権の時に企業横断的な労働組合は「民営化」の名のもとに潰されたのである。今は、企業内労働組合さえも衰退して組織率は30パーセントを割っている。
その隙間を突いて登場したのが「ブラック企業」である。ブラック企業という言い方は適当ではない従来の企業がブラック化したり、今までの企業が衰退している横から新しく登場したブラック企業もあるだろう。
安倍政権はこの事態を防止するどころか、ブラック企業を助けているような労働政策(「働き方改革」)を打ち出したのである。この改革は明らかに長時間労働の弊害をなくすどころか「長時間労働」を拡大するものであった。それも残業代もゼロにして。
つまり、集団主義のプラス面は「終焉」させられたが、マイナス面は「肥大化」しているのである。
丸山氏の論理(それと丸山氏を継承し発展させた阿部氏の論理)に戻ろう。丸山氏は戦後に発表した論稿で、主に日本の軍隊や軍事政権を分析して「無責任の体系」を明らかにした。つまり、起こった事態に対して責任の所在は誰にもなく、特定の個人が責任を取るシステムではないというのである。
これは西欧の個人主義的な体系を、建前はともかく、「本音」では摂っていないので当然の帰結だろう。権利が保障されていないところには責任も存在していないからである。分かりやすく言えば、報酬がない者に責任だけを負担しろと言うのは土台無理な話である。「権利」という翻訳語には実質もない訳語である。欧米語ではライト(RIGHT)なので、「正義」とか「公正」とかが中心的な言葉であり、「利益」というのは二の次である。
ライトが保障されていない「集団」(阿部氏の言う「世間」)で、そこの個人に対して「責任」だけはお前にあると言われても、困惑するだけである。こうした集団主義が支配する社会でそのポジティブな側面が衰退して、ネガティブな側面だけになった場合に「全体主義」が顔を出すのである。
それを丸山氏が「無責任の体系」として分析されたのである。そして、阿部氏は『世間論』でこの丸山氏の論理を発展させて「世間」という伝統的な日本の集団主義の母体を論理的に展開されたのである。
しかし、阿部氏は最後の章(阿部謹也『近代化と世間』)では西欧思想の限界にも言及している。今度国連が採択した「核兵器禁止条約」を先取りしたような主張であった。
つまり、西欧思想の発展の果てに出てきた近代科学は軍事面だけが偏重されて、とうとう核兵器まで開発され、(広島、長崎の原爆投下は実際に起こってしまい、)戦後も核兵器やその他の大量殺傷兵器も拡大再生産されている。これは直ちに廃棄する方向に行かないと危ないと警鐘を鳴らしているのである。
こうして見ると西欧思想とその派生態である科学も「無責任」の様相を示していることは明らかである。
阿部氏は日本の伝統的な「歴史」(世間論)と西欧思想の行き詰まりにも対応した議論をされて、阿部氏の結論を示唆されている。(それについては阿部氏の議論を直接検討することを望む。)
「護憲+コラム」より
名無しの探偵
