日本の「戦後史」を見直している私ですが、日本の現代史家は総じて(一部を除く)ステレオタイプの見方でお茶を濁していることが最近の本でも分かります(注1)。
つまり、図式的で、実証性が欠如し、「戦後」という時空間の緊張感が無いということです。
敗戦直後の惨憺たる日本の都市の状況を、都市生活者の生き死に(サバイバルをかけた生活の過酷さ)に寄り添う感覚が全くない「他人事」の歴史であるということです。
このような敗戦直後の状況の中で、「東京裁判」が開廷されましたが、この軍事法廷には大きな謎がつきまとっています。
実は天皇の免責と731部隊(石井部隊とも)の免責が大きな謎でしたが、これらは主に常石敬一教授や作家の青木富貴子氏の調査(注2)で現在はかなり明らかになっています。(天皇の免責は相当数の著書があります。)
さらに前のコラムでも触れたように安倍首相の祖父岸信介を代表として、おびただしい数の「戦犯容疑者たち」が極秘裏に免責(アメリカによるもの)され、巣鴨プリズンから出所していたことはあまり明らかにされていません。これは歴史家の怠慢です。
以上の事柄は今回コラムの主要なテーマではありません。今回コラムのテーマは、私が実際にお会いして指導を受けた弁護士の仕事(ワークス、業績)に関してです。
今から10年以上前に故遠藤誠弁護士とお会いしました。遠藤氏は平沢貞通死刑囚の最後の弁護人でした。
平沢死刑囚は帝銀事件の犯人容疑で死刑宣告を受けましたが、これといった物証もなく、また動機も見当たらないという不確かなものでした。毒殺を免れた目撃証言からも程遠い人物であり、当時は有名な日本画家(横山大観の直弟子でした)だったことからも、「帝銀事件」の犯行手口から最も遠い犯人像の人物です。(帝展無鑑査の有名画家が銀行員多数を毒殺することは想定外です。)
これらの平沢画伯冤罪の証拠と論理は、遠藤弁護士の著書「平沢貞通と帝銀事件の全貌」に詳しく描写されています。(その全貌を知りたい方は同署に直に当たってください。)
遠藤誠弁護士は10年以上前に病気で亡くなりました(享年72歳)。遠藤弁護士との出会いと自伝などの著書から、その中で私に告げられたことはすべて「遺言」であったと、今は思っています。
遠藤誠弁護士は帝銀事件の真犯人が帝銀事件で犯行に使用した青酸化合物の鑑定を常石教授に依頼しています。そして、遠藤弁護士と常石教授は、平沢画伯が犯人ではなく、真犯人は731部隊の軍医か部隊の技師の中にいる、と「犯行手口」(これは長くなるので割愛します)から割り出しています。
実際に、当時の警察(捜査官数名)は平沢に犯行は無理だとして、731部隊や登戸研究所の部隊の軍医や技師たちを捜査線上でマークして逮捕直前であったことも、今は明らかになっています(常石教授の著書に書かれています)。
それではなぜ、731部隊の軍医や技師が逮捕されず、あまり関係があるとは思えない有名な日本画家(テンペラ画)の平沢氏が有罪とされ、死刑判決を受けたのでしょうか。その解答は東京裁判の「中」にあります。(注3)
結論から言うと、731部隊を東京裁判では戦犯にしない、免責する、とアメリカと731部隊のトップである石井中将との密約があり、その免責条件として731部隊が戦時中に開発した細菌兵器の全資料をアメリカに引き渡すこと、となっています。
こういう密約が存在し、実際に東京裁判が開廷中に、「帝銀事件」が起こり、警察が731部隊や登戸研究所の軍医や技師を容疑者として引っ張るということになれば、「東京裁判」からの免責は国際法廷という裁判の性格上、おかしいという世界の世論の注目を浴びてしまう。つまり、731部隊の中に「帝銀事件」の真犯人がいては「都合が悪い」ことになってしまいます。
それで、GHQは日本の警察に待ったをかけたのです。これが平沢死刑囚が有罪になったからくりです。
そして、奇妙なことに平沢死刑囚は死刑の執行を受けずに長寿を全うしています。このことは日本政府の閣僚(法務大臣など)が平沢が真犯人ではないことを知っていたからにほかなりません。
今回のコラムは遠藤誠弁護士との出会いと別れ(葬儀に参加しました)に触れましたが、次回は弘中惇一郎弁護士との出会いに関して記述します。
注1保坂正康他有名作家著「戦争とこの国の150年」山川出版社2019年刊行
注2常石敬一著「謀略のクロスロードー帝銀事件捜査と731部隊」
青木富貴子著「731」新潮文庫
注3粟屋憲太郎著「東京裁判への道」講談社学術文庫
「護憲+コラム」より
名無しの探偵
つまり、図式的で、実証性が欠如し、「戦後」という時空間の緊張感が無いということです。
敗戦直後の惨憺たる日本の都市の状況を、都市生活者の生き死に(サバイバルをかけた生活の過酷さ)に寄り添う感覚が全くない「他人事」の歴史であるということです。
このような敗戦直後の状況の中で、「東京裁判」が開廷されましたが、この軍事法廷には大きな謎がつきまとっています。
実は天皇の免責と731部隊(石井部隊とも)の免責が大きな謎でしたが、これらは主に常石敬一教授や作家の青木富貴子氏の調査(注2)で現在はかなり明らかになっています。(天皇の免責は相当数の著書があります。)
さらに前のコラムでも触れたように安倍首相の祖父岸信介を代表として、おびただしい数の「戦犯容疑者たち」が極秘裏に免責(アメリカによるもの)され、巣鴨プリズンから出所していたことはあまり明らかにされていません。これは歴史家の怠慢です。
以上の事柄は今回コラムの主要なテーマではありません。今回コラムのテーマは、私が実際にお会いして指導を受けた弁護士の仕事(ワークス、業績)に関してです。
今から10年以上前に故遠藤誠弁護士とお会いしました。遠藤氏は平沢貞通死刑囚の最後の弁護人でした。
平沢死刑囚は帝銀事件の犯人容疑で死刑宣告を受けましたが、これといった物証もなく、また動機も見当たらないという不確かなものでした。毒殺を免れた目撃証言からも程遠い人物であり、当時は有名な日本画家(横山大観の直弟子でした)だったことからも、「帝銀事件」の犯行手口から最も遠い犯人像の人物です。(帝展無鑑査の有名画家が銀行員多数を毒殺することは想定外です。)
これらの平沢画伯冤罪の証拠と論理は、遠藤弁護士の著書「平沢貞通と帝銀事件の全貌」に詳しく描写されています。(その全貌を知りたい方は同署に直に当たってください。)
遠藤誠弁護士は10年以上前に病気で亡くなりました(享年72歳)。遠藤弁護士との出会いと自伝などの著書から、その中で私に告げられたことはすべて「遺言」であったと、今は思っています。
遠藤誠弁護士は帝銀事件の真犯人が帝銀事件で犯行に使用した青酸化合物の鑑定を常石教授に依頼しています。そして、遠藤弁護士と常石教授は、平沢画伯が犯人ではなく、真犯人は731部隊の軍医か部隊の技師の中にいる、と「犯行手口」(これは長くなるので割愛します)から割り出しています。
実際に、当時の警察(捜査官数名)は平沢に犯行は無理だとして、731部隊や登戸研究所の部隊の軍医や技師たちを捜査線上でマークして逮捕直前であったことも、今は明らかになっています(常石教授の著書に書かれています)。
それではなぜ、731部隊の軍医や技師が逮捕されず、あまり関係があるとは思えない有名な日本画家(テンペラ画)の平沢氏が有罪とされ、死刑判決を受けたのでしょうか。その解答は東京裁判の「中」にあります。(注3)
結論から言うと、731部隊を東京裁判では戦犯にしない、免責する、とアメリカと731部隊のトップである石井中将との密約があり、その免責条件として731部隊が戦時中に開発した細菌兵器の全資料をアメリカに引き渡すこと、となっています。
こういう密約が存在し、実際に東京裁判が開廷中に、「帝銀事件」が起こり、警察が731部隊や登戸研究所の軍医や技師を容疑者として引っ張るということになれば、「東京裁判」からの免責は国際法廷という裁判の性格上、おかしいという世界の世論の注目を浴びてしまう。つまり、731部隊の中に「帝銀事件」の真犯人がいては「都合が悪い」ことになってしまいます。
それで、GHQは日本の警察に待ったをかけたのです。これが平沢死刑囚が有罪になったからくりです。
そして、奇妙なことに平沢死刑囚は死刑の執行を受けずに長寿を全うしています。このことは日本政府の閣僚(法務大臣など)が平沢が真犯人ではないことを知っていたからにほかなりません。
今回のコラムは遠藤誠弁護士との出会いと別れ(葬儀に参加しました)に触れましたが、次回は弘中惇一郎弁護士との出会いに関して記述します。
注1保坂正康他有名作家著「戦争とこの国の150年」山川出版社2019年刊行
注2常石敬一著「謀略のクロスロードー帝銀事件捜査と731部隊」
青木富貴子著「731」新潮文庫
注3粟屋憲太郎著「東京裁判への道」講談社学術文庫
「護憲+コラム」より
名無しの探偵