🔶接待とは、『共犯意識』の深層心理を植え付ける儀式
総務省の接待疑惑は拡大する一途。特にNTTの迎賓館では、官僚から歴代総務大臣や政治家にいたるまで接待漬けになっている。
民間業者と権限を持つ政治家や官僚たちとの間の接待は、何かしらの癒着があると疑われても仕方がない。
本当にうまい酒が飲みたいなら、官僚や政治家などと飲まない。気の置けない友達と飲むのが一番。気を使いながら飲む酒などうまくないに決まっている。それをぐっと抑えて政治家や官僚たちと飲むのは、下心があるから。下心なしに飲むはずがない。
仕事に関する話はなかった、などと言うのは、言い訳に過ぎない。業者と政治家・官僚たちとの接点は仕事しかない。仕事の為に接待はある。それこそ細部にわたる具体的話はないかもしれないが、「あの件をよろしく」程度の話がないわけがない。
酒の席で具体的な話をすれば、痛くない腹を探られるに決まっている。だから、事前にそんな話は決めておいて、酒の席では「ありがとうございました。これからもよろしく」「いやいや、こちらこそ」程度で話は通じる。
まあ、接待の席の話はその程度だろう。後は、業者と官僚・政治家の顔つなぎ。一緒に酒を飲み、馬鹿話をし、女性をからかうなどという『共犯意識』を積み上げるのが狙い。特に男どもにとって、下ネタ的秘密の『共犯意識』ほど連帯意識を強めるものはない。
業者にとって、官僚や政治家たちの深層心理にこの種の『共犯意識』を植え付けれれば、大成功。後は黙っていても、業者に有利な決定が下る可能性が高い。だからこそ、接待には、金をかけねばならない。金額が高いほど『共犯意識』は深くなる。
接待のメカニズムとはそういうものだ。
🔶日本における権力者(支配者層)の権力に対する認識の問題
現在進行形の総務省接待問題で考えてみても、今責任を取らされているのは官僚。政治家や大臣はほとんど責任を取っていない。
特に、武田総務大臣の答弁は酷い。彼の答弁を聞いていると、目の前の問題をやり過ごすための答弁で、問題の本質を掘り下げるものではない。三百代言とは彼のような答弁を言う。
小泉内閣以来、特に安倍政権以降の大臣の答弁、官僚の答弁は、東大文学どころではない。「あなたはご飯を食べたでしょう」と言われて、「ご飯は食べてない。パンを食べた」という類の子供の言い訳程度の答弁をしている。自らのレーゾンデートルを賭けた魂のこもった説明など聞いた事がない。
こういう答弁が幅を利かせている日本の国会の現状を見ていると、ほとんど絶望的になる。
彼らの醜悪な姿を見ていると、彼らの「権力」に対する姿勢(理念)が透けて見える。
①自己顕示欲としての権力(自らの力を見せつける⇒人事を弄ぶ)
②自己満足としての権力(権力誇示⇒力のない人間に対する蔑視⇒野党勢力や反体制的学者、評論家、メディアなどに対する威圧的姿勢や蔑視)
自分が保持している権力は、自分のもののようであって決して自分個人のものではない。権力は国民のために使って初めて役に立つ。それ以外の事に使ったらそれは全て『私的利益』のためだ。民主主義国家の権力者は、権力に対する厳しい自己規制が必要である。
彼らには、このような権力に対する認識がなく、自己規制もない。自らに与えられた権力が、国民から負託されたものだという自覚がない。
実は日本における『権力に対する認識の問題』は、日本歴史の特殊性に依存しており、きわめて根が深い。
時代は、平成から令和へと流れているが、小泉・安倍政権以降、政治家の『権力に対する認識』は、見事に戦前の認識へと逆行している。彼らの権力認識は、戦前のそれより質が悪い。
戦前の権力者は、【天皇】という神聖化された絶対権力者の臣下というタガがはめられていた。
【天皇機関説】を唱えた美濃部達吉は、「天皇」に対する明治政府以降の本音を述べたに過ぎない。しかし、この建前を守らないと、日本の支配機構それ自体が崩壊する、というジレンマを抱え込んでいた。「天皇の臣下」というタガは、戦前の日本の支配機構を支える最重要な柱だった。
しかし、小泉・安倍以降の日本の権力者には、「天皇の臣下」などというタガはない。あるのは、「俺が最高権力者だ」という認識のみ。このむき出しの権力認識は、世界中に存在した(存在する)独裁者のそれとほとんど大差がない。
今週、東電の福島原発汚染水の海洋放出が決定された。菅総理大臣の決断だそうだ。こんな重大な決定をろくな国会審議もせずに行うなど、およそ民主主義国家の首相の行う事ではない。彼が就任直後に行った学術会議人選拒否なども同様である。
このように、彼らの権力行使の「公私混同」ぶりは、戦前の権力者よりはるかに酷い。
このような「権力認識」は、必ず「権力保持」が自己目的化する。「権力保持」が自己目的化した人間や組織は、結果として「権力行使」が「権力保持」のための私的「権力行使」に収斂する。
政治家に思想、哲学、理念、理想などと呼ばれるものが絶対に必要なのは、自己保身のための「権力行使」に傾きがちな人間の弱さを自分自身で克服するためである。
安倍・菅政権の理念の無さ、科学的・論理的思考の無さ、倫理観の無さ、想像力の欠如、弱者に対する思いやりの無さ、自らに反抗する人間に対する無慈悲な扱い・・・。いずれを見ても、彼らに権力を付与したら、その権力行使の大半が、【権力保持】のため以外に行使されない事は明白。
民主国家で権力を託するに足りる政治家を選出すると言う事は、国民の運命を託す事を意味する。だから、民主国家に生きる国民は、政治家の根幹を見抜く眼力を持たなければ、自らの運命を諦めるに等しい、と言う事をもう一度考えなければならない。
「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水
総務省の接待疑惑は拡大する一途。特にNTTの迎賓館では、官僚から歴代総務大臣や政治家にいたるまで接待漬けになっている。
民間業者と権限を持つ政治家や官僚たちとの間の接待は、何かしらの癒着があると疑われても仕方がない。
本当にうまい酒が飲みたいなら、官僚や政治家などと飲まない。気の置けない友達と飲むのが一番。気を使いながら飲む酒などうまくないに決まっている。それをぐっと抑えて政治家や官僚たちと飲むのは、下心があるから。下心なしに飲むはずがない。
仕事に関する話はなかった、などと言うのは、言い訳に過ぎない。業者と政治家・官僚たちとの接点は仕事しかない。仕事の為に接待はある。それこそ細部にわたる具体的話はないかもしれないが、「あの件をよろしく」程度の話がないわけがない。
酒の席で具体的な話をすれば、痛くない腹を探られるに決まっている。だから、事前にそんな話は決めておいて、酒の席では「ありがとうございました。これからもよろしく」「いやいや、こちらこそ」程度で話は通じる。
まあ、接待の席の話はその程度だろう。後は、業者と官僚・政治家の顔つなぎ。一緒に酒を飲み、馬鹿話をし、女性をからかうなどという『共犯意識』を積み上げるのが狙い。特に男どもにとって、下ネタ的秘密の『共犯意識』ほど連帯意識を強めるものはない。
業者にとって、官僚や政治家たちの深層心理にこの種の『共犯意識』を植え付けれれば、大成功。後は黙っていても、業者に有利な決定が下る可能性が高い。だからこそ、接待には、金をかけねばならない。金額が高いほど『共犯意識』は深くなる。
接待のメカニズムとはそういうものだ。
🔶日本における権力者(支配者層)の権力に対する認識の問題
現在進行形の総務省接待問題で考えてみても、今責任を取らされているのは官僚。政治家や大臣はほとんど責任を取っていない。
特に、武田総務大臣の答弁は酷い。彼の答弁を聞いていると、目の前の問題をやり過ごすための答弁で、問題の本質を掘り下げるものではない。三百代言とは彼のような答弁を言う。
小泉内閣以来、特に安倍政権以降の大臣の答弁、官僚の答弁は、東大文学どころではない。「あなたはご飯を食べたでしょう」と言われて、「ご飯は食べてない。パンを食べた」という類の子供の言い訳程度の答弁をしている。自らのレーゾンデートルを賭けた魂のこもった説明など聞いた事がない。
こういう答弁が幅を利かせている日本の国会の現状を見ていると、ほとんど絶望的になる。
彼らの醜悪な姿を見ていると、彼らの「権力」に対する姿勢(理念)が透けて見える。
①自己顕示欲としての権力(自らの力を見せつける⇒人事を弄ぶ)
②自己満足としての権力(権力誇示⇒力のない人間に対する蔑視⇒野党勢力や反体制的学者、評論家、メディアなどに対する威圧的姿勢や蔑視)
自分が保持している権力は、自分のもののようであって決して自分個人のものではない。権力は国民のために使って初めて役に立つ。それ以外の事に使ったらそれは全て『私的利益』のためだ。民主主義国家の権力者は、権力に対する厳しい自己規制が必要である。
彼らには、このような権力に対する認識がなく、自己規制もない。自らに与えられた権力が、国民から負託されたものだという自覚がない。
実は日本における『権力に対する認識の問題』は、日本歴史の特殊性に依存しており、きわめて根が深い。
時代は、平成から令和へと流れているが、小泉・安倍政権以降、政治家の『権力に対する認識』は、見事に戦前の認識へと逆行している。彼らの権力認識は、戦前のそれより質が悪い。
戦前の権力者は、【天皇】という神聖化された絶対権力者の臣下というタガがはめられていた。
【天皇機関説】を唱えた美濃部達吉は、「天皇」に対する明治政府以降の本音を述べたに過ぎない。しかし、この建前を守らないと、日本の支配機構それ自体が崩壊する、というジレンマを抱え込んでいた。「天皇の臣下」というタガは、戦前の日本の支配機構を支える最重要な柱だった。
しかし、小泉・安倍以降の日本の権力者には、「天皇の臣下」などというタガはない。あるのは、「俺が最高権力者だ」という認識のみ。このむき出しの権力認識は、世界中に存在した(存在する)独裁者のそれとほとんど大差がない。
今週、東電の福島原発汚染水の海洋放出が決定された。菅総理大臣の決断だそうだ。こんな重大な決定をろくな国会審議もせずに行うなど、およそ民主主義国家の首相の行う事ではない。彼が就任直後に行った学術会議人選拒否なども同様である。
このように、彼らの権力行使の「公私混同」ぶりは、戦前の権力者よりはるかに酷い。
このような「権力認識」は、必ず「権力保持」が自己目的化する。「権力保持」が自己目的化した人間や組織は、結果として「権力行使」が「権力保持」のための私的「権力行使」に収斂する。
政治家に思想、哲学、理念、理想などと呼ばれるものが絶対に必要なのは、自己保身のための「権力行使」に傾きがちな人間の弱さを自分自身で克服するためである。
安倍・菅政権の理念の無さ、科学的・論理的思考の無さ、倫理観の無さ、想像力の欠如、弱者に対する思いやりの無さ、自らに反抗する人間に対する無慈悲な扱い・・・。いずれを見ても、彼らに権力を付与したら、その権力行使の大半が、【権力保持】のため以外に行使されない事は明白。
民主国家で権力を託するに足りる政治家を選出すると言う事は、国民の運命を託す事を意味する。だから、民主国家に生きる国民は、政治家の根幹を見抜く眼力を持たなければ、自らの運命を諦めるに等しい、と言う事をもう一度考えなければならない。
「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水
