黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

川の成り立ちVol.11古隅田川に栄枯盛衰を見る

2025-03-12 09:50:17 | 地理

話を太古の昔から始めよう。利根川は、太古の昔においては東京湾(江戸湾)に注いでおり、現在の中川、古隅田川、隅田川を通る大河であった(私の作る川の簡略図は川が縦に(南北に)に流れているが、実際は斜めに(北西から南東に)流れている)。

それがあーなってこーなって(詳細は、当ブログの「川の成り立ち」シリーズの過去回を参照のこと)、現在はこんな風になっている。

注目すべきは、現在の古隅田川である(上図の赤い線。なお、古隅田川という名称の河川は埼玉県にもあるが、今回の主人公は東京都の古隅田川である)。太古の昔においては、利根川の本流すなわち大河であり、武蔵国と下総の国の国境であったのに、現在の古隅田川は、水量が減って干上がり、蛇行の後だけが残って見る影もない(実際、そのほとんどが暗渠で陽の目を見ない)。これほどの栄枯盛衰も珍しい。甲斐の武田は、かつて日本中を震え上がらせた大軍団であったのに、勝頼の代で滅亡した際は、ほんの数騎で山中を彷徨ったというが、そのことを思い起こさせる。

多くのハイカーが勝頼が辿った道を歩くように、古隅田川の流路を辿って往事を偲ぼう、というのが今回の小旅の趣旨である。上記の「現在図」のうち、古隅田川の辺りを拡大したものがコレである(以下「拡大図」という)。

必要に応じてご参照いただければ幸いである。小旅は、上流から下流にかけて、すなわち、中川から綾瀬川に向かう進路を辿った。

スタートは、中川からの分流ポイント。中川の東岸から古隅田川が分流する西岸を見る。対岸の真ん中くらいに分流口があったはずだが、今では影も形もない(と思ったが、改めて写真を見ると、その部分の土手の色が他と違って緑が少ない。分流口をふさいで土をかぶせたから?だとすると、影も形もあったことになる(この括弧追記))。

近くの橋を渡って西岸の土手に行き、中川に背を向けて見下ろすと、目の前の道路が古隅田川の跡である。

古隅田川はほとんどが暗渠で上が道になっていて、その道は足立区と葛飾区の境を成している。右手前の空き地は長門排水場跡である。この道路の突き当たりにマンションが建っているが、このマンションは二棟に分かれていて、その間に区界(古隅田川)が通っている(すなわち「突き当たり」ではない)、ということは、同じマンションでありながら棟によって住所の区が異なるわけである。

このマンションを抜けると突き当たりが(今度はホントに「突き当たり」)亀有アリオ。区界(古隅田川)は突き当たった所を右折して北進し、小さい公園の真ん中を抜けて小径に入る。

この両側にはもう少し大きくて車が通れる道が走っているのだが、こうした車止めがある細い小径こそが暗渠に相応しい。実は、この辺りの下見を既に二回しているのだが、正しいルートを進むのは今回が初めてである。前二回のいずれも、もう少し大きな通りを進んでしまったために道をはずれてしまったのである(こっちの方が「道をはずれた感」があるが)。この後、常磐線のガード下をくぐるのだが、

ここだってすぐ東側にはもっと大きなガード下があり、思わずそっちに行ってしまったのが前回の下見時である。この狭いガード下をくぐって進む区界(古隅田川)は相変わらずの小径である。

小径の両側は梅が咲いていた。桃色の梅だったり、

白い梅だったり。

こんな車の通れない小径であるが、「隅田子育地蔵」なる標識が立っていた。

「隅田」という名称が古隅田川を思わせる。

この小径は左に(西)にカーブし、そのうち環七にぶち当たった。

久々に見る車である。進む先は、写真中央に白く輝いている路地で、やはり車止めのある小径である。近くの横断歩道を渡ってそこを進むと、

以前、葛西用水の回で歩いた「葛西用水との合流点」が現れた。あのときは、左右に走る道路の右(北)から葛西用水路を辿って歩いてきて、ここにたどり着いたのであった。葛西用水路はこの交差点の少し前で暗渠となり、この位置で古隅田川の暗渠に合流するのである。

葛西用水路は終点を迎えても、古隅田川はまだまだこれからである。その行く先だが、上の写真で見るように道が二本に分かれている。左側が区界(古隅田川)であり、右側が名前の付いている商店街である。並行して走る道路のうち、一方がうらさびれた暗渠で他方が開けた商店街というのはよくある構図である。街歩きが趣味の人は後者を歩くのが常だが、川跡が目的の場合に進むのは前者である。

それでも、ここからは、区界(古隅田川)も車の通行がOKであり、都会の道路っぽくなる。それと同時に、橋の名前を記した柱が急にたくさん現れ始め、

もともと「古隅田川」という川だったことのアピールが盛んになる。位置は、拡大図に「橋の跡が多数」と記した辺りである。

この道は南西に延びていて、そのうち常磐線にぶち当たり、ガード下をくぐって線路の南側に出て、すぐに北側に戻り、しばらくして再度南側に出ると、これまで暗渠だった古隅田川の水面がようやく陽の目を見ることとなる。

古隅田川はここからしばらく南下し、途中で右(西)に折れて進むと川の手通りにぶち当たる。

一瞬、暗渠に戻った古隅田川だが、ここを渡るとすぐに復活する。

さらに直進(西進)すると、交差点にぶち当たる。右に行くと綾瀬駅、左に行くと法務局。水路はまっすぐ先に続いているのだが、

実はこれは後から作られたショートカットである。区界(本来の古隅田川の流路)は綾瀬駅に北上するルートである。懐かしい。その昔、綾瀬駅とつながるこの道路の真ん中は、いかにもドブにフタをした暗渠でござい、といった感じの作りで無料の自転車置き場になっていた。皆が乱雑に自転車を置くものだから、帰りに自転車を取り出そうと思っても他の自転車と絡み合って用意に取り出せなかったものだ。ここが古隅田川、すなわち由緒ある大利根川のなれの果てなどということは微塵にも思わなかった。そのうち、ここが工事中となり、自転車置き場を廃止してきれいな道路にしたのであった。下の写真は、駅を目前にした辺りである(右カーブの先を左にカーブすると駅である)。

なんともきれいになったものである。

さて、区界(古隅田川)は、綾瀬駅にぶち当たった所で左(西)に折れ、駅舎が終わった辺りで左(南)に折れて南進し、さきほどのショートカットのすぐ先に出て、再び目に見える水流となる(大きく寄り道をして大体元の位置に戻った格好)。

古隅田川はここからさらに南下し、しばらく行って右(西)に折れると木道がよく整備されている。

正面に高速が見えるが、その下が綾瀬川で、古隅田川はそこで綾瀬川に合流して生涯を終えるのである。その最終ポイントが大六天排水場である。

もともと古隅田川は、現在の隅田川につながっていたのだが、開削してきた綾瀬川とここでぶつかって「打ち止め」にされたのである(因みに、綾瀬川は、後に開削してきた荒川放水路とぶつかって途中で「打ち止め」にされる(因果応報))。だから、綾瀬川の西岸には、取り残された古隅田川が有名な東京拘置所の北側を走っていて、木道が整備されたその流れは、

「裏門堰」と呼ばれている(私は、この木道を歩くときまって足にビリッと電気が走る)。

そう言えば、漱石の小説の中に「舟で綾瀬まで行った」旨の記載がある。最初に舟に乗ったのは現在の隅田川であろう。綾瀬の辺りを流れていたのは古隅田川である。隅田川と古隅田川間は、現在は荒川や綾瀬川でぶちぶち切られていて直接舟で往来できないが、漱石の頃はまだ往来が可能だったのだろうか。すると、滝廉太郎の♪はーるのー、うらあらあのー、すうみいだーがーわー……の「すみだがわ」とは古隅田川である可能性があるのではないか?と密かに思っているワタクシである。

因みに、川にはカモがつきものである。カモは、中川のような大河はもちろん、

古隅田川のようなBächlein(小川の小さいヤツ=小小川)にもいる。

片や宮殿に、片や兎小屋に住むくらいの住居規模の違いであるが、カモは、そんなことは気にしない風である。私はカモを見るのが大好きである(スーパーでカモ肉を買ってオレンジ煮にして食すのも大好きである。なお、野生のカモをとっ捕まえると、オレンジ煮にしてもしなくても鳥獣保護法違反でとっ捕まるから、カモ肉を食したければお店で買うべしと強く申し添える)。

 

 

 


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