歳をとると時間の進みが早く感じられるのは物事にワクワクしなくなるからだという(チコちゃん情報)。そう言えば、今どき、年末年始と言っても、テレビはつまらないし、痛風で足は痛いしで、せいぜい「ふてほど」と「孤独のグルメ」の再放送を期待するくらいである。結構、楽しんでるって?小学生の頃はこんなものではなかった。長さから言うと、夏休みにはかなわないが、冬休みの方がワクワク感が大きかったのは、「もーれつア太郎」等のアニメの再放送のほか、テレビでよく怪獣映画を放送したし、大晦日は「レコード大賞」「紅白歌合戦」「行く年来る年」、新年の夜は「芸能人隠し芸大会」という流れがルーティンとして確立していた。
私が最初に見たゴジラ映画も、冬休み中にテレビで放送された「ゴジラの逆襲」(第2作)だった。テレビは白黒だったが元の映画も白黒だったからそこは問題なかった。だが、暗いシーンになると画面がまっくろけっけで何も識別できなかった(今でも同じ)。そこは想像で補った。想像の世界ではゴジラはどこかの公園に現れた。それがそのまま夢につながって、夢の中で私はよくゴジラに追いかけられた。あんなにでかいのに毎回隠れてる私を的確に見つけ出した。「大巨獣ガッパ」もテレビで見た。カラー作品だったがわが家では白黒作品て、やはり所々識別不能だった。
「紅白」についてはだんだん演出過多だなぁ、と思うようになった。特に、演歌の大御所を競馬の馬にみたてて「○○号ー」と呼ぶコント(?)はよく覚えていて、子供ながらに馬鹿馬鹿しいと思った。馬にならされた大御所も不機嫌そうだった。
私が小学校の高学年になると、紅白の変わりに第九を見せてくれ、と親にせがむようになった(当時は、テレビは一家に一台であった)。私の懇願は実を結び、某N響の第九を視聴したのだが、いまいちな感じがした。で、新聞のラテ欄を見ると、同じ夜、10チャンネル(当時)でカラヤンとやらがベルリン・フィルとやらを振った第九を放送する、とあったので、これも見せてくれ、とせがむと、「一回見たからもういいだろう」と返ってきた(母は、映画館で映画をみるときも、途中から入って、当時は入れ替え制ではないから次回のさっき見た箇所まで見ると「もう一回り見たからいいだろう」と言って退出するような人だった)。だが、このとき私はかなりねばったのだろうか、結局カラヤンとやらの第九を視聴することができた。「だんち」だと思った(「団地」だと思ったのではない)。
さらに年月が進んで私が中学生になると、テレビが子供部屋にもしつらえられるようになり、年末年始は自室にこもって映画を観るのが楽しみになった。そうやって観た作品の一つがパゾリーニ監督の「デカメロン」である。お子様にはあまり見せない方が良さそうなシーンにあふれていて、これを観ることができたのは自室にテレビがあったればこそである。その中に「馬のような体勢でする」シーンがあり、このシーンを読みたいがためにもっと大きくなってから図書館でボッカチョの原作を借りて読んだものである。
あと、思春期の男子が年上の女性といろいろあって、ベッドルームで男子が目覚めるとそこに女性の置き手紙があって、女性が男子の代筆をしたかのように「今日、ボクはオトコになった」と書いてあっておしまい、という作品があった。この作品のタイトルが分からない。血眼になってネット内を探しまくったが出てこない。この作品ではないか?という情報をいただいて、そのDVDをポチって観たがラストシーンが違っていた。残りの人生で、なんとか作品を特定したい、そしてもう一度観て、半世紀前に味わったキュンとした気分をもう一度味わいたいと願うワタクシである。
なお、冒頭に「歳をとると時間の進みが早く感じられる」、それは「ワクワクしなくなるからだ」と書いたが、逆に、ワクワクしているときの方が、その瞬間においては時間が早く進み、退屈な時間は長く感じられるものである。一見、逆である。その理由を考えてみた。思うに、ワクワク行為の最中は夢中だから時間があっという間に進むのに対し、ワクワク行為を後から振り返ると思い出すことがたくさんあって時間が長く感じられる、ということではないか、とわれは思うのである。
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