以前アップした野方給水塔の記事にTBを頂いた、
『ニライカナイ』さんの記事「みずの塔 [日常]」にあった、
「ペンキがはげたような部分は空襲の痕跡」が気になりました。
リンクさせて頂いているK.T.さんの、
「癸卯雑識 / 野方 0008」にアップされている写真を見ると、
中野区の広報掲示板の文面として、確かに
「空襲時の弾丸の痕跡が残されている給水塔です。」
と書いてあります。
しかし以前アップした記事の給水塔潜入当時 (1976) に撮影した別の写真で、
弾丸の跡と中野区が説明する部分が写った写真を見ると、
弾丸の跡はおろか、壁面が剥落しています。
▼
クリックすると問題の場所の拡大画像が表示されます
拡大してみても、問題の場所(赤丸囲み)の
剥落した跡から露出する地肌には、
特にそれらしき凹みはみあたりません。
これからすると、現在の給水塔に弾丸の痕跡として残っているのは、
弾丸の跡ではなく、
弾丸の跡があったと言われる場所に、
それを再現したものではないかと思います。
また、拡大画像の胴体部分の方に残るいくつかの凹み(白丸囲み)の方が、
機銃掃射の跡らしき感じに見えますが、
現在の胴体部分の同じ場所を見ると、
逆に、奇麗に塗装されているので、
その辺も気になるところです。
■ 追記:2008年1月16日 ■
思い出の給水塔でもあるので、気になって、
中野区役所 / 教育委員会 / 生涯学習支援会に問い合わせてみました。
すると、被弾したのは、案内板の場所とは別の場所だという答えが返ってきました。
給水塔の胴体の、画像とは反対側にあたる壁面に、
いくつかの四角い補修跡のようなものがありますが、
それが被弾跡だというので、
案内板に書かれている場所と全然違うということや、
塗り直しの時に、被弾跡の場所だと分かる様にわざわざそうしたのか?
と聞いてみると、
付近の住民の話を元に、なんとなくそう決めてしまった、
という事でした。
かなりアバウト、、、
大戦中にグラマンの射撃によって被弾した記録は残っているものの、
どこに被弾したかの記録は全く残っていないそうです。
また、中野区には完成当時と塗り直し後の写真はあるものの、
大戦後から塗り直しまでの間の写真も全くないそうです。
一応調べてもらう様に頼みましたので、
何か分かったら、随時アップしていこうと思います。
『ニライカナイ』さんの記事「みずの塔 [日常]」にあった、
「ペンキがはげたような部分は空襲の痕跡」が気になりました。
リンクさせて頂いているK.T.さんの、
「癸卯雑識 / 野方 0008」にアップされている写真を見ると、
中野区の広報掲示板の文面として、確かに
「空襲時の弾丸の痕跡が残されている給水塔です。」
と書いてあります。
しかし以前アップした記事の給水塔潜入当時 (1976) に撮影した別の写真で、
弾丸の跡と中野区が説明する部分が写った写真を見ると、
弾丸の跡はおろか、壁面が剥落しています。
▼
クリックすると問題の場所の拡大画像が表示されます
拡大してみても、問題の場所(赤丸囲み)の
剥落した跡から露出する地肌には、
特にそれらしき凹みはみあたりません。
これからすると、現在の給水塔に弾丸の痕跡として残っているのは、
弾丸の跡ではなく、
弾丸の跡があったと言われる場所に、
それを再現したものではないかと思います。
また、拡大画像の胴体部分の方に残るいくつかの凹み(白丸囲み)の方が、
機銃掃射の跡らしき感じに見えますが、
現在の胴体部分の同じ場所を見ると、
逆に、奇麗に塗装されているので、
その辺も気になるところです。
■ 追記:2008年1月16日 ■
思い出の給水塔でもあるので、気になって、
中野区役所 / 教育委員会 / 生涯学習支援会に問い合わせてみました。
すると、被弾したのは、案内板の場所とは別の場所だという答えが返ってきました。
給水塔の胴体の、画像とは反対側にあたる壁面に、
いくつかの四角い補修跡のようなものがありますが、
それが被弾跡だというので、
案内板に書かれている場所と全然違うということや、
塗り直しの時に、被弾跡の場所だと分かる様にわざわざそうしたのか?
と聞いてみると、
付近の住民の話を元に、なんとなくそう決めてしまった、
という事でした。
かなりアバウト、、、
大戦中にグラマンの射撃によって被弾した記録は残っているものの、
どこに被弾したかの記録は全く残っていないそうです。
また、中野区には完成当時と塗り直し後の写真はあるものの、
大戦後から塗り直しまでの間の写真も全くないそうです。
一応調べてもらう様に頼みましたので、
何か分かったら、随時アップしていこうと思います。
弾痕の件、ご指摘のとおりだと思います。
わたしは中野区の区報に書かれていた文章をそのまま信じ込んでいたのですが、こうしてきちんと検証されるとは、素晴らしいことだと思います。
貴重な写真も、興味深く拝見させていただいております。
今後とも、よろしくお願いいたします。
被弾跡を見てみようと思ったら、どこにもなかったんで、
おかしいなと思ったまでですよ。
なんと言っても思い出の給水塔なので(笑
こちらこそよろしくお願いします。
また時々おじゃまさせて頂きます。
中野区が弾痕だとしているモノがご指摘のとおり後世の捏造だったいうことが証明されたら、あのプレートを撤去しなければいけませんね。ここしばらく野方にはごぶさたしておりましたので、プレートの撮影も兼ねて現地に行ってみようと思います。
ところで、竣工後40数年しか経過していない1976年の野方物件の写真ですが、正面階段室の外壁のモルタルの剥落は、かなりはなはだしいように思われます。あるいは空襲時に被弾してモルタルがごそっと剥落した、という可能性はないのでしょうか。ウチのサイト内にある同じ1976年の大谷口物件の写真(下のURL)を見ると、正面階段室の外壁のモルタルにはほとんど損傷が見られないように思われます。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~dontget/wt/towers/19760620ooyaguti.htm#tower26t
確かに被弾したおかげで剥落し可能性も、見逃せませんね。
ただプレートに書かれている2カ所のうちの上の方は、
ご覧のように一番外側の外壁が残存し、弾の跡らしきものもみあたらないのは、
気にかかるところですが、
貴サイトの大谷口を拝見すると、確かに奇麗なので、
やはり被弾したダメージから剥落したのかもしれませんね。
ところで、この階段スペースの最頂部ですが、
これもまた現在の形とすこし違うような気がします。
最頂部の一番張り出した部分の左側が、
少しかけてる様にみえるのですが、
気のせいでしょうか?
ここも1977年の塗装時に補修したのでしょうか。
空爆を除けば、これだけの破損はなかなか生じないと思いますが。
ひょっとしたら東京都水道局のほうに何らかの記録が残っているかもしれませんね。
案内板は水道局の資料をもとに制作した、
とも言っていたので、あまり期待はもてないと思いますが、
もしかしたら、別な話が聞けるかもしれませんね。
一度トライしてみようと思います。
で、わたしのBlogに廃墟徒然草さんが調べられた真実を追加することができました。
お世話になりました!
たかだか半世紀前のことなのに、いざ確認を取ろうとすれば、大変な労力が必要になってきますね。
だからこそ、このBlogでは、これからも市井の話題を取り上げてくださいませ。
ですね。
でも考えてみたら50年って長いですよね。
たった40前倍で、もう弥生時代の後期ですから。
戦後の黒い平原から現在の東京になったのたのが50年だと思うと、
50年って凄いなぁ~って思います。
真実がわからくなってしまうことがあるのも、うなづけますね。
もともとは廃墟の話をアップしようと思ってはじめたblogで、
市井の話題をアップするつもりなんか全然なかったんです。
ただアップしているうちに、これって何だろうとか思ってちょっと調べてみたら、
結構へぇ~って事が多かったんで、
だんだんそれが面白くなって来た、ていう感じでなんです。
このインターネットを拝見し、被弾箇所の真相を明らかにしたいと思ったので、2009年10月1日の議会で取り上げてみました。
その結果わかったことは、
1. 教育委員会は、公園側とも幼稚園側とも承知していないし、明答はしていないつもり。
2. 平和担当は、実際に空襲を体験した近隣住民の話を基に銃痕を推定し、2005年に説明板を設置した。
3. 現在、国の文化財へ登録申請していて、これが決定されれば補修工事に入り、傷跡はすべて埋められてしまう。
私は、銃撃跡の保存を求めたのですが...