あらゆる出来事の中に「楽しみを見つける」ということがもてはやされたというか、流行ったことがあったような。
私は過去、サラリーウーマンをしていた頃、仕事を楽しんですることが得意だった時期があった。
生活の中に楽しみを見つけて暮らすって素敵ね とか そんなことを言っていた時もあった。
昨日、突然気がついたのだけど、あくまでも私の場合だけど、
結局は、楽しくないから「楽しみを見つけて」いただけだったのではないか。
「楽しみを見つけながら」していた仕事では、疲れはたまり、ストレスもたまっていた。
それらの貯金は下ろせなかった。
ホントに楽しかったら、わざわざ「楽しみを見つける」作業なんてしなくていいはずだ
という見方に、突然気がついた。人生半世紀以上生きてやっと。
意見は様々だと思うけど、私の場合はきっとそうだった。
面白くないから、楽しみを見つけていたのだと思う。
楽しみを見つける過程の中で、自分でストーリーを組み立てている。
これがああなって、こうなったらきっと楽しい、せやしがんばろ。
これ終わったら、自分のご褒美にあれ買お とか。
これ簡単にできたら、絶対仕事が合理的になるはず、それ考えるの楽しい とか。
常に「今」でない将来に焦点をあてて、自分のことを置き去りにして物語を組み立て、そこに楽しみを見出している。
今が楽しくないから、先に楽しみを設定して、自分を納得させて(ごまかしてとも言うかも)やってきたんだと。
そこには今生きている自分はいない。
ニンゲンが生きていく限り、ストレスのない生活ってゼロに近いと思う。
自分が好きなことを、
楽しいとか楽しくないとか
そういう目で観ることもなく、感じることもなく、
夢中でやっている時はあんまり疲れない。
夜中までやって、翌日も爽快で、
なんでこんなに元気なんやろ と 自分で不思議なほどの時が、ほんの稀にある。
そういう時がホントに楽しいことをしている時なのだと思った。
生活のためにお金を得る仕事につかないと生きていけないという現実はある。
そういう中では「楽しんでしましょう」という社交的?な生き方が喜ばれるのだろうとも思う。
でも、時間をリースに出しているということを自覚している方が疲れないような気がする。
根が真面目?なのか、そういう育てられ方をしただけの結果か、
「何事も一生懸命真面目にしなければいけない」と思って暮らしていたら、疲れるばかりのような気がする。
今も、どちらかというと疲れて暮らしているような気がする。
せっかく気がついたのだから、ちょっと視点を変えてみようと思う。
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