雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

井上鉄太郎旧蔵証書類

2024年10月08日 09時36分00秒 | 収集品
だいぶ書いてませんでした。

今回は井上鉄太郎(正しくは井上銕太郎)の証書類を載せます。
古本屋で購入したのか、ネットオークションで買ったのかはもう昔のことで忘れました。


史料1:勲三等瑞宝章勲記
史料2:大正大礼記念章章記

史料3:東京高等裁判所長官よりの表彰状
史料4:東京家庭裁判所所長よりの表彰状

井上鉄太郎は、明治10年10月16日、愛知県士族として生まれ、明治31年に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業してます(井尻常吉編『歴代顕官録』原書房、1967年、689頁)。

明治33年1月、判事検事登用試験および弁護士試験に及第した(関西大学年史編纂委員会編『関西大学年史紀要5』関西大学学術情報事務局博物館事務室、1984年3月、2頁、原本は『大阪朝日新聞』明治33年1月8日月曜日8面)井上は明治34年7月25日に判事になりました。

大正時代には盛岡地方裁判所所長、昭和2年4月17日から函館地方裁判所所長(北海タイムス社調査部『北海タイムス年鑑 昭和16年版』、北海タイムス社、1940年、284頁を歴任し、昭和11年に勲二等瑞宝章を受章(「内務技監辰馬鎌蔵外千一名叙勲並勲章加授ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10113181600、叙勲裁可書・昭和十一年・叙勲巻七・内国人七(国立公文書館)4コマ目)、翌年10月30日に司法界を退職し、従三位に叙されています(「退職検事井上鉄太郎外四名特旨叙位ノ件/元朝鮮総督府財務局長林繁蔵」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A11114541800、叙位裁可書・昭和十二年・叙位巻五十一(国立公文書館)6コマ目)。

戦後にはいってからは昭和23年に東京家庭裁判所創設時点から昭和29年まで調停委員や参与員を勤めていることが確認できます。また昭和26年に東京高等裁判所長官賞(史料3)、翌27年には東京家庭裁判所長賞(史料4は26年だが、沿革誌には26年受賞の記述なく間違いカ)を受賞してます(東京家庭裁判所編『東京家庭裁判所沿革誌 創立5周年記念』東京家庭裁判所、1955年10月、215頁)

簡単に井上の経歴を追いました。戦前には閣下と呼ばれる位にまでのぼった井上が、戦後も司法の第一線で活躍していたことが朧げながらわかります。また、長男である井上文夫も、京都大学法律学科を出て、判事となり司法で活躍していたようです(人事興信所編『人事興信録第17版 上』、1953年、22頁)。




ウェスト銀河に乗車してきました。

2024年06月23日 21時47分00秒 | 日記
だいぶご無沙汰してました。
たまたまウェストエクスプレス銀河のクシェットが取れたので、乗ってきました。

東京から新幹線で岡山へ行くと、レールスター(E10編成)が止まっていました。


いまはこだま運用になってしまったとかなんとか。


岡山で新車になった特急やくもに乗車しました。たまたまトップナンバーのY1編成でした。

出雲市駅で銀河到着を待ちます。



15:52。銀河が着いたので乗りこみます。


車内はかつての寝台車を思うような通路になってて個人的にはとても良いです。



泊まったクシェット。指定席券代で乗れるのは嬉しいです。天井が思ったより低い印象でしたが、24系もそんなものだったかもしれません。

グリーン車じゃないほうのプレミアムカーはホテルの様な雰囲気。
乗ってみたくなります。

途中、根雨駅で降車。


大正11年創建以来の建物だそうで、それでも特急停車駅で少し驚きました。
さらに直営でみどりの窓口もやってます。




 
さらに途中、備中高梁駅で芸能鑑賞をしました。図書館が蔦屋図書館なのはいただけませんが…。


もうすぐなくなりそうな115系と銀河を撮影

高梁出発後はクシェットで京都まで爆睡しました。

2回落選してようやく乗れたので、たいへん良く、楽しかったです。

次はグリーン車が取れたらなぁ

小山嘉兵ヱ旧蔵『陸軍大学校卒業式次第』

2024年03月31日 20時01分13秒 | 収集品
こんばんは、まごーんです。
3月は卒業式の月ですが、今回はそれに乗っかっていこうと思います。





陸軍大学校45期の卒業式次第を紹介します。
これは東京の古書店で購入したもので、
45期生の一覧と、歴代の卒業生および職員が掲載されています。
ちなみに45期生には島貫武治、榊原主計、誉田太郎などがいました。

てっきり卒業式の行事進行が掲載されているものとばかり思っていました。

さて中身をぱらぱらめくってみると、
なんと小山の卒業証書が挟まっていました。





小山は陸士33期生で、大平秀雄(大平首相の兄)や、加藤武夫(隼戦闘隊)の同期でした。
陸大45期生としては唯一の輜重兵出身でした。

陸大卒業後は陸軍省兵務局などに勤務しましたが、
病により大佐で止まってしまったようです(『偕行』465号、1989年9月、23頁))

もちろん卒業式のときは小山はそれを知る由は
なかったはずですが。

皆さんもお体には気を付けてください。
それでは

12・1・2月合併号 曽我祐邦子爵名刺(坂崎担宛)

2024年02月09日 23時14分00秒 | 収集品
まごーん、気がついたら2月になってた

後輩が学芸の職についたり、同期の企画展示を見に行ったり、自分も企画展示の準備があってあっという間である。

さて、今回は、華族の名刺を紹介しようと思います。



5月30日付けで曽我佑邦(1870-1952)から板崎担へ宛てた名刺です。
曽我は、陸軍中将子爵である曽我祐凖の子として生まれた人物で、自身も陸軍軍人でした。
フランス留学などを経験し、軍を退いたあとは鉄道会社社長などを歴任し、子爵貴族院議員としても活躍しました。

一方の板崎担(さかざきしずか)は、1887年生まれ、朝日新聞に入社後、編集局などに勤務しました。

内容は以下になっています。

坂崎坦殿
貴著十八世紀フランス絵画之
研究御直与被下難有謹ンデ
御礼申上候以御陰小生不得手ノ
方面ニ□有力ナル智識ヲ得ル事と
存□□御礼申上□
敬具
五月卅日

封筒[淀橋区西大久保二ノ二〇一 坂崎坦殿 消印〔1〕2.5.31]

くずし字辞典がどっか飛んだので一部読めてないですが、
坂崎からの著書『十八世紀フランス絵画の研究』恵贈と、
新しい知識を得た事に対する御礼となっています。

『十八世紀フランス絵画の研究』は1937年に岩波書店から出版されており、
現在国立国会図書館で閲覧が可能です(https://dl.ndl.go.jp/pid/1239465/1/408)

曽我と板崎は同じ西大久保に住んでいたので、
このような交流があったのかもしれません。

参考文献
板崎担『ドラクロワ』朝日新聞、1967年
(曽我祐邦に関してはwikipediaにしました)

10・11月合併号-殉国七士廟竣工式写真

2023年11月30日 22時32分00秒 | 収集品
気がつけばもう年末ですね。

今回は殉国七士廟の竣工式の写真です。
戦争犠牲者顕彰会代表の三浦兼吉から、忍甲一宛に贈られたものです。
建立したての七士廟の墓石の写真や、出席者の写真など10数葉ありますが、今回は主な人物なだけあげます。

竣工当日は荒木貞夫や、東條英機夫人、木村兵太郎夫人、松井石根夫人、板垣征四郎夫人が出席していたようです。

夫人方はともかく、荒木貞夫とともに同じく戦犯として起訴された鈴木貞一はなぜ呼ばれてないのでしょうか。
都合がつかなかったのかもしれませんが。

以下、各人の写真です。


荒木貞夫元陸軍大将

木村兵太郎夫人
東條英機夫人


後日の集合写真に写る
松井石根夫人、木村兵太郎夫人、板垣征四郎夫人