雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

収集品をネット展示してみる(戦前の本)

2014年02月28日 23時11分51秒 | 収集品
こんばんは、まごーんです。ねむいことこの上那須与一や←
今日は海兵26期の海軍少将・匝瑳胤次氏の著した本を紹介します。

「歴史は轉換す」です。そこそこ厚い本です。昭和17年11月10日に5000部発行されました。
著者の匝瑳少将は海軍の強硬派である"艦隊派"の論客で、この本の内容もかなり"アメリカが悪い"だの"中華民国が悪い"というのをバンバンに押し付けてます。
ですが、当時(戦時中)の艦隊派の考えを知る上でかなり貴重だと思います。

裏には匝瑳少将の印鑑が押してあります。

こういう本も沢山読まないと…。
1番欲しいのは、石川信吾が昭和6年に発行した「日本之危機」が欲しいですね…古本屋にもネットで探しても売ってない。 (´・ω・`)

南山大学のシンポジウム「日中戦争・対日協力政権研究の最前線」を聞きに行きました。

2014年02月27日 22時22分20秒 | 日記
こんばんは、まごーんですっ(キラっ
こんなテンションやけど、今日は雨やってんよ (´・ω・`)
…なんか支離滅裂してきた

今日は南山大学で行われたシンポジウムに行きました。人生初シンポジウムです。
シンポジウムの内容は題名にもありますが、「日中戦争・対日協力政権研究の最前線」です。

これが告知です(アジア・太平洋研究センターHPより)
あまり長々とは載せませんが、最初の広中一成先生の今井武夫関係文書について、数が5000点と多く驚きました(日記の一部は書籍化されております)。
つぎに、二番目の関智英先生の汪精衛政権の憲政実施構想には興味をそそられました。考えたことなかったです。憲政。
最後の今井就稔先生のお話では、日中戦争が開始されたあとも上海に、多数の実業家が重慶政府に従わず残ったこと、重慶政府の法幣を日本軍も使用していたことなど、次から次へと自分の知らないことが出てきて、もう興奮してました。


うーむ…歴史は奥が深い




二二六事件に遭遇した親戚の話

2014年02月26日 19時08分20秒 | 歴史
こんばんはーまごーんやー。もう2月終わりそうやね~。
今日は2月26日というわけで先日予告したように、この日に死んだ高師直の話を……


ウソです…二二六事件に遭遇した親戚の話します。何分うろ覚えな部分もありますがよろしくお願いします。
二二六事件については書かれた書籍だけで図書館が建つほどなのであえて詳しくは説明しませんが、分かりやすく言えば「陸軍の一部将校が天皇陛下の為に悪いやつらをやっつけようと行動し、やっつけたら実は悪いやつらどころか天皇陛下の信頼厚く、陛下の逆鱗に触れて失敗」てとこでしょうか。簡単になんで色々物申したい方もおられますでしょうが、ご了承ください。

因みに日本陸軍史上二回目のクーデターというか、事件です(竹橋事件はどっちかというと反乱か)。

では、本題へ。
二二六事件発生当時、私の親戚は対満事務局というところに勤めていまして、事件の一報を聞いた親戚は髙橋是清邸へ行ったものの、陸軍の兵隊に阻まれたとかなんとか。とりあえずそのまま対満事務局へ行きました。事務局へ着くや、事務局勤務の陸軍大佐(名前は失念。たしか戦後B・C級戦犯)に対して「この事件は陸軍の責任だ、ただちに上に報告して陸軍はこの反乱軍を討伐しろ」と一喝。この大佐は直ぐに陸軍省(参謀本部か?)に飛んで行ったそうです。
暫くしてから、対満事務局に石原莞爾陸軍大佐が親戚の元へ訪ねてきて。

(写真は石原莞爾)
「今回の陸軍の不祥事は誠に遺憾であり、速やかに事態を収拾する」と詫びた上で「この事態で新たな内閣の首班候補となっているキミの義弟について私は詳しくは知らないので、人となりについて教えて欲しい」と尋ねたようです。
親戚は「彼は現場一筋の人間だから、内閣を組閣するのには向かない」という趣旨を述べ、それを聞いた石原大佐は帰って言ったようです。

以上が親戚の昔話です。少しだけだし、うろ覚えなので繰り返しますがご容赦ください。

汪精衛工作

2014年02月25日 21時49分14秒 | 中華民国南京政府
こんばんはー。まごーんやー。
今日も汪精衛について。
蒋とともに南京政府で務めていた汪は1935年11月1日、国民党六中全会の開会式の記念撮影で狙撃されます。汪は翌年、療養のため渡欧し、1937年1月に帰国します。
この年の7月には日本軍の北平攻撃により日華事変が勃発。汪はこの事変で徹底抗戦を唱える蒋とは逆に和平グループの中心を担います。
この汪に目をつけたのが今井武夫陸軍中佐や影佐貞昭陸軍少将を中心とする日本側の中国との和平を目指すグループです。日本の中国和平派は汪との接触を開始、汪兆銘工作を始めます。
汪は1937年11月13日に起こった長沙大火で蒋を批判し、彼との対立が決定的となります。今井武夫によると、16日の蒋との会談で決別を決意したらしいです(今井武夫著・支那事変の回想より)。11月20日、汪は満州の承認や日本軍の2年以内の撤兵などの内容が盛り込まれた日華協議記録に署名、調印しました。この合意の実現のため、汪側は「我々が重慶を脱出するかわりに日本は和平解決条件を公表し、我々はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定しました。この計画に基づき、汪らは重慶を脱出することになります。

本日はここまで。明日は2月26日。二二六事件が起こった日なので、事件に遭遇した親戚の昔話をやります(つまり一時休憩)。

國民政府の重職を歴任した汪精衛

2014年02月24日 13時40分49秒 | 中華民国南京政府
こんにちはまごーんです。お昼はラーメンでした。
今日も昨日に引き続き、南京政府について話します。
まず、南京政府の中心となる

汪精衛についてですね。イケメンです。汪は南京政府主席として、戦後は漢奸とされてますが、彼は中国建国の父である孫文の愛弟子で彼の遺言などを起草するなど、大変な信頼を得ていました。
1925年に孫文が亡くなると広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任します(広東國民政府)。つまりNo.1です。余談ですが毛沢東(マォツォトン・もうたくとう)もこの政府に参加してました。
1926年にはいわゆる北伐が開始され、政府が武漢(ウーハン)へと移りますが、ここでも汪は主席となっています(武漢國民政府)。しかし、次第に蒋介石と衝突し汪はフランスへ亡命します(翌年に蒋介石の招電で帰国し中央常務委員、組織部長に就任)。
1932年に蒋と汪を中心とする南京國民政府(汪の南京政府とは違います。ややこしいですね)が発足し、汪は行政院長、鉄道部長などを務めます。

本日はここまで