雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

武蔵の名簿に関する回答

2015年03月31日 01時20分09秒 | 収集品
こんにちは、まごーんやで。
前回お話しした名簿に関する、防衛研究所の回答がきました。↓
まぁ、要するに、海軍の個人履歴は厚労省の所管だから、そっちに問い合わせてね。というものです。
しかし厚労省への海軍軍人の個人履歴の照会は遺族(3親等以内の親族)のみしかできませんので事実上不可能です。
一応、手紙で問い合わせしてみる予定ではあります。可能性はゼロではない。

紹介した戦艦武蔵の名簿について

2015年03月28日 17時30分56秒 | 日記
どうも。まごーんです。
以前紹介した戦艦武蔵の乗組員名簿についてですが、今更思い返せば、昭和19年5月25日乗組というと、レイテ沖海戦の他に、マリアナ沖海戦もあるので、一概に武蔵の名簿とはハッキリ申し上げられませんね…。いやいや、思い込みとは恐ろしいもので、これが真実と錯覚してしまいそうになります。
とりあえず、ハッキリさせたいので、防衛省防衛研究所に調査を依頼しておきました。
返信届き次第、報告致します。

収集品をネット展示してみる~平沢安次郎少将肖像写真~

2015年03月28日 11時33分01秒 | 収集品
こんにちは、まごーんやで。
今回は山本芳輔少将の写真と一緒に手に入れた写真。こちらも平沢少将旧蔵品でしょう。
中はこのようになっております。
此方が平沢安次郎陸軍少将。
根拠としては歩兵第80連隊長で昭和3年より前の人。ということで平沢少将と推測しております。中佐で勲三等なら古参、ほぼ大佐みたいなものです。
昭和3年よりまえの80連隊長なら今井清(のち少将)もありえますが、顔が違いますので、平沢少将でしょう。
さて、平沢少将についてですが、全くわかりません。陸軍士官学校9期生。
李太王の大葬の時に鹵簿将校軍制官を務めた。ということくらいです。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10110676100、故李太王国葬書類 上・大正八年(国立公文書館)」より
恐らくは80連隊の連隊長を務めて予備役編入という無天の道だったとは思いますが…。

収集品をネット展示してみる~人見錚一郎少将宛葉書2通~

2015年03月24日 22時13分18秒 | 収集品
どーも、まごーんやで。
今日は、重巡洋艦熊野の最後の艦長である人見錚一郎少将の葉書を紹介します。
こちらが人見少将(当時中佐。写真はヤフオクから)
えー、ヤフオクでバラバラに遺品が出品されてたので誰も入札しなかった葉書をウチが落としました。
本当は写真も欲しかったのですが、お金ないので画像を何枚か保存するにとどめました。
人見少将の少将任命書(戦死後昇進)
米内海軍大臣による弔辞
(いずれもヤフオクから)
さて、人見少将は海兵47期。いわゆる最後の生存少将昇進クラスの1人です。
ですが、人見少将は戦死昇進での少将です。経歴に関してはそこまでマイナーではないので略しますが、専門は水雷で、海大卒後は第三戦隊参謀や第七戦隊参謀を務めています。最終軍職は熊野艦長。
マニラに於いて空襲にあい、熊野共に戦死しました。
さて、今回紹介する葉書です。
海軍中佐時代の人見さんに宛てられた葉書で、右は親族でしょうか、幼い感じなので名前は非公開とさせていただきました。左の送り手である、中井少尉はのちに少佐で死亡しているようで、ヤフオクに彼の人見少将宛の遺書も出品されていました。(もちろん誰かが、高額で落とされました。)
右側のは新年の、左は暑中見舞いですね。左のは、奥宮大尉のことが少し触れられており、もしかしたら奥宮正武のことかもしれません。
裏はポストカードなのです。上は右側の葉書。下は左の葉書の裏となってます。女の子と、桜島の景色です。
教育局の室内で、この葉書を見て人見さんは微笑みを浮かべてたのでしょうね。

しかし、こうして、遺品が出品されるのは見ると心が苦しくなります(もちろん、ウチもその出品の恩恵に預かってる1人ですが)。

収集品をネット展示してみる~山本芳輔陸軍少将写真~

2015年03月16日 03時54分17秒 | 収集品
こんにちは、まごーんです。
今回紹介するのはこちら。

ある陸軍大佐の写真です。
このように閉じられており、山本少将旧蔵品の可能性が高いです。
開いたところです。
3枚まとめて1500円ほどで手に入れたうちの1枚です。
ウチはこの顔、どっかで見たことあるなぁ、と思って手に入れたのですが、その思いあたりがある顔はこちら。
ちょっと老けましたが、似ているでしょう?(山本芳輔少将写真/個人蔵)
そう、この写真の人と先ほどあげた人物は同一人物でした。
この人は山本芳輔陸軍少将という方です。
しかし、これだけでは根拠に薄いので何か確実なものは無いかと探しました。
まず、最初の写真には、襟の部分に「11」がついてます。これは陸軍歩兵第十一連隊所属を表します。階級は大佐なので連隊長です。次に軍服。これは明治45年制式ないしは昭和5年制式なので明治45年~昭和12年までの連隊長の人と絞れます。
次に腕につけてる喪章。つまり偉い人の葬儀があった時の時期ということです。
ウチはこの人は山本芳輔とうすら確信してたので、この喪章は大正天皇大喪の礼の時と推測されます。
そして、アジア歴史資料センターで調べるとそれに見事当てはまった資料がありました。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10050073400、昭和1~2年 大正天皇陸特綴 其1 4/4(防衛省防衛研究所)」より
この表の大佐の欄の右端から3番目、第十一連隊のところに山本芳輔の文字が見えます。根拠がありました。上記の写真は山本芳輔氏が当時第十一連隊長で大正天皇大喪の礼の時に撮った記念写真となります。
山本芳輔陸軍少将経歴を以下に紹介しますが、資料が少ない(アジ歴にも関係資料が4点しか無い模様な)ので、ザックリとなります。(主にアジア歴史資料センター所蔵資料を元に作成)
↑山本芳輔少将の陸士卒業証書(個人蔵)
山本芳輔 陸軍少将 陸士12期 歩兵
某県にて誕生
歩兵第四十一連隊付候補生
明治33年11月21日 陸士12期卒業
任 陸軍歩兵少尉
任 陸軍歩兵中尉
明治37年 日露戦争に従軍
任 陸軍歩兵大尉
明治40年 第六師団
同師団より陸大推薦を受ける(結果は不合格)

↑「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09123157000、明治40年 陸軍大学校候補人名 庶人秘附属(防衛省防衛研究所)」より
任 陸軍歩兵少佐
大正6年12月頃 陸軍歩兵中佐
臨時軍事調査委員会委員
委員時代の呉海軍工廠見学についての申請書。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03024866800、大正07年 「歐受大日記 1月」(防衛省防衛研究所)」より
陸軍も海軍工廠を見学してたというのは興味深いですね。果たして海軍側が何処まで手の内を見せたか…ですが。
その後は
大正11年 欧州出張
↑「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025335600、大正11年 「歐受大日記 自04月至07月」(防衛省防衛研究所)」より
任 陸軍歩兵大佐
大正14年 京都連隊区司令官
大正15年/昭和元年 歩兵第十一連隊長

勲等は勲三等瑞宝章。功五級金鵄勲章。

現時点で履歴を見る限り、山本芳輔少将は陸軍大学校に入れなかった人によくある、連隊長を最終軍職とし、少将昇進と同日に待命、後日予備役編入と推測されます。
もし、大尉時代に陸大に合格していれば、少なくとも少将になっても軍職配置があったでしょう…と思いたいですが、勿論、陸大出身者全員がそうではないので、厳しいですね。